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鉄鋼の産業発展物語 第6話 / くろがね線物語

 

戸畑と八幡を結八幡製鐵所の専用鉄道

八幡製鐵所は、戸畑で操業していた東洋製鐵と1921年に合併した当時から、戸畑地区で生成する
熔銑を船舶で八幡へと輸送していたが、海上輸送のリスクと不経済性が指摘されていた。

一方八幡地区では、高炉の溶銑をつくるときの副産物である鉱滓(スラグ)の処理が問題化していた。
これらの打開策として建設されたのが、戸畑地区と八幡地区を鉄道で結ぶくろがね線

 

 
くろがね線概要
・八幡地区と戸畑地区を結ぶ、全長6kmの鉄道
・宮田山トンネル:1180m
・レール幅:1067mm(旧国鉄/JR在来線と同じ)
・設計者:河内貯水池建設の総指揮である沼田尚徳
・工期:1927
年(昭和2年)起工し、1930年(昭和5年)に完成した。

その工事は全て製鉄所の社員で行っており、中間地点に当たる宮田山トンネルは
出水等に見舞われて難工事だった。

 

また、宮田山トンネルの洞門は沼田尚徳によって、凝った意匠が施されている。

                 戸畑側

                   八幡側

 
・戸畑側入口はローマの古い城壁をかたどったデザイン。

・八幡側入口はギリシャ・ローマの古典を倣ったルネッサンス風


 

使用目的
開業当初は戸畑で出来た銑鉄を八幡に輸送し精錬した、一方で八幡で出来た鉱滓を戸畑に
輸送し戸畑地区拡張のための埋立に使われた。
現在では、半製品のスラブ、ホットコイルやレール等の輸送に使われています。

 


 

くろがね線の様子

一枝地区から宮田山トンネルへ

宮田山トンネル戸畑側入口

 

 

宮田山トンネル八幡側入口

トンネルを抜けて八幡へ

 

 

 枝光の県道を渡る架構

 枝光の県道を渡る架構

 今は珍しい、リベット継手


 

琵琶湖疏水の山トンネル東口にも似ている八幡側洞門

 

 くろがね線 八幡側洞門

 琵琶湖疏水 山トンネル東口

 

このことは設計者沼田尚徳が琵琶湖疏水の設計者の田辺朔郎の著書の愛読者で
学生時代に良く目にした琵琶湖疏水を参考にしたのではないだろうか。  

 


 

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鉄鋼の産業発展物語 第7話 / 高見神社物語

 
明治神宮の兄貴分となる高見神社
高見神社の由来は3世紀の時代に遡る神功皇后仲哀天皇を崩御の後、熊襲・朝鮮平定に
あたり皇后みずから御祖神十二柱を祀ったのが創始といわれ近郷高見神社の本宮でもある
創始時代は洞海湾岸の大字尾倉字高見(現在の八幡泊地近く)の小高い丘陵、
高見山と呼ばれる場所にあった。

 
高見神社の移設
1897明治30年)に八幡村に官営製鐵所を建設することが決まった
高見山に長官・技監を筆頭とする高等官の官舎や貯水池を設置することになったため、
高見神社は移設を余儀なくされ、製鉄所建設時に豊山八幡宮(千草ホテルの近く)に
仮住まいすることになった。

操業開始から
5年後の1906明治39に第一次拡張計画が議会で承認されると高見山に
建設された高等官の官舎も、構外に移ることになった
現在地の大蔵槻田地区に高等官・判任官用の官舎と職工用の宿舎である職工長屋が建設された。
1911明治44年)ごろに高等官用官舎2626判任官用の官舎2958
工長屋
2301100
戸と今でいうニュータウンが開発された。


             当時の地図
 
山手側に建ち並んだ高等官・判任官用の官舎の一体を高見と呼び、構内からの地名を引き継いだ。
職工長屋の一帯は一条町~六条町と名付けられた。
 

 
高見神社の建設
官営八幡製鐵所が操業した当初から高見神社は製鐵所の守護神とされ、それに相応しい地に造営
したいという思いが製鐵所関係者の間に強くあった。
民間会社の日本製鐵となった1934昭和9時に新しい神社を造営することを決定し
設計を内務省神社局の角南隆技師に依頼した
角南技師は、春日造、住吉造、大島造、大社造といった古い時代感覚の模倣一歩も出ない建築家に
不満を持っており昭和に時代を象徴するような神社建築を後世に残したいという思いで
新様式の神社設計に取かかった
そして近代遺産の観点からも評価できる高見神社が1936昭和11に完成し

37
年の仮住まいを経て現在の地に永住の地を定めるとともに、
地域の神様の枠を超え、製鐵所の守護神へと大きく性格を変えていった
 

 
明治神宮と高見神社は兄弟

角南隆技師は1920年(大正9年)に完成した明治神宮の設計を伊藤忠太教授の助手として参画した
その後高見神社の設計を行い1936(昭和
11
年)に完成させた。当時は明治神宮が高見神社の
兄貴分であった。
 

       明治神宮

     高見神社

 
明治神宮は1945年(昭和20年)に戦災で焼失したため、再び角南隆技師設計し角南流の新しい
社殿を1958(昭和
33年)に完成させた
そして、今度は高見神社が明治神宮の兄貴分となった。
高見神社と明治神宮の双方を参拝する機会があるときは、是非とも兄弟の類似性という観点からも
ご覧ください。
                      
 


全国でも珍しい御祖神十九柱

神功皇后が創始された時は御祖神十二柱を祀られた。

その後、七柱が加えられ合計「十九柱」の御祖神が祀られおり、これほど多くの御祖神が

祀られているのは全国的にも珍しい神社である。

 


 

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鉄鋼の産業発展物語 第8話 / 満州事変と洞岡地区の拡張

 
海に築く製鉄所の先駆け
第一次世界大戦後、アメリカも1929年にウォール街の株式暴落で恐慌が起こり、
それが世界中に波及していった。日本では1930年(昭和5年)に昭和恐慌が起き、
国際的緊張に対応するために軍事力強化を図る。
そして、1931年に勃発した満州事変は日本の産業に大きな意味を持つ。
鉄鋼原料と製品市場確保のために軍事力により中国・満州に踏み込んだものであり、
膨大な軍事を通じて、重化学工業及び関連産業の発展を促進した。
一方、金本位制の停止が赤字公債の発行による財政支出の増大によって、
産業活動を刺激する道を開いた。
 
洞岡地区の拡張
洞岡地区(葛島と東田地区の間の海)は、高炉で発生した鉱滓の捨て場として、
1918年(大正7年)頃
から埋め立てが開始された。

 
       埋立の様子(奥は東田地区)
 
当初は、有事の際の原料や鉱石を2~3年分確保する用地づくりが目的であった。
しかし、八幡地区は拡張の余地がなくなったため、この場所に新しい工場が次々と建設される。
 

 

海に築く製鉄所の先駆け (1930年1938年)
洞岡は日本鉄鋼業の立地の特徴である「海に築く製鉄所」の先駆けとなった。
東田地区はドイツ式のレイアウトでつくったもので、陸上輸送による内地原料を主眼とし、
製品の運搬に自然への勾配を利用する目的で、製鐵所の一番高い海抜15mの土地に高炉を

建設した。しかし、原料の大部分は海外から船舶で輸入しており、汽車や索道による構内

運搬費がかさんでいた。大きなコストダウンを図る目的で海岸に高炉とコークス炉を建設した。

 

    4基の高炉群

    現在の様子

 

・1930年:洞岡第一高炉火入れ、洞岡コークス炉操業開始
・1933年:洞岡第二高炉火入れ
・1937年:洞岡第三高炉火入れ
・1938年:洞岡第四高炉火入れ、洞岡第五コークス炉作業開始  
 

 


 

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鉄鋼の産業発展物語 第9話 / 終戦までの苦難の歴史

   
1937年(昭和12年)に勃発した日支事変が長期化するころ、資源の供給力に乏しい
日本の経済は既に行き詰まり状態になっていた。
このような状況下で、1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃を行い、
太平洋戦争が始まった。
そして1942年(昭和17年)ミッドウェー海戦における敗北を境に戦局が悪化すると、
船舶の損傷によって南方資源の輸送力が激減し、国内では統制の対象となるべき
物資そのものが枯渇し始めた。
 太平洋戦争下の八幡製鐵所
海外からの資源に依存するわが国の鉄鋼業は重大な危機に直面する。
太平洋戦争開戦により、アメリカによる屑鉄禁輸出措置がとられ、ミッドウェー海戦によって
南方からの鉱石資源も途絶えた。
今まで有事に備えて備蓄してきた屑鉄や鉱石と、国内資源に頼りながら、
操業をづけることになる。しかし、備蓄資源もだんだん底を着き始め、屑鉄を一般回収する
措置もとられた。
 
  
   東田地区高炉群          洞岡地区高炉群
 
1944年(昭和19年)には、唯一の輸入先である中国からの鉱石や良質の強粘結石炭の
輸入が途絶え、高炉操業の継続が困難になり、国内で11基の高炉が休止し、
唯一操業を続けたのが八幡にある、東田第2高炉、東田第4高炉と洞岡第4高炉の
3基だけであった。
 

 
日本の戦争終焉まで
日清戦争後に製鐵所を建設し、そして日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日支事変を
経験し、戦争と向かい合わせで発展してきた日本。
しかし、太平洋戦争開戦時は既に行き詰まり状態の日本、1944年(昭和19年)から
崩壊の一途を辿って終戦を迎える。
 
●1944年(昭和19年)
6月16日:北九州地区空襲 (下関、門司、小倉、戸畑、八幡) 
日本全土の空襲が始まる


    北九州地区空襲

・8月29日:八幡空襲 八幡製鐵所の設備が大打撃を受ける 
 
●1945年(昭和20)年
・3月27日〜7月11日:関門海峡に5000個もの機雷を投下
・6月19日〜20日:福岡大空襲 約1,000人犠牲
・6月29日、7月2日:下関・門司大空襲 約18,000人犠牲
8月 6日:広島原爆 約123,000人犠牲 (ウラン型爆弾)
8月 8日:八幡大空襲 約2,500人犠牲
8月 9日:長崎原爆 約73,000人犠牲(プルトニューム型爆弾)
・8月15日:終戦
 
 ●原爆投下後の八幡製鐵所
1945年に8月8日の八幡大空襲で、八幡製鐵所も殆どの設備が壊滅状態だった。
しかし、高炉と最低限鉄を生産する設備は修復すれば使える状態であった。
終戦当時、唯一残った高炉は八幡製鐵所の3基だけであった。

 
       八幡製鐵所        住宅地
 
しかし、原料炭を供給する筑豊炭鉱や北松炭田も戦争の被害で操業停止の状態に陥った。
製鐵所の操業を維持することが戦後復興の重要な使命であり、八幡製鐵所の社員が
立ち上がり、自ら筑豊炭鉱や北松炭田に行き、自らの手で石炭を掘り、首の皮一枚だけ
繋がっていた日本の経済活動を維持していき、今日の豊かな日本につなげた。
 

 
なぜ長崎に原爆が投下されたのか
なぜ小倉(北九州)に原爆が投下されなかったのか?それは、北九州という括りでなく
各旧5市単位で戦闘計画を立てことも考えられる。
アメリカ軍は空襲と原爆の場所を入念に検討し計画した。原爆の場所決定に際しては、
被害が正確に測定できる半径5Km以上の市街地で軍事工場があるところを選んだ。
最終的に決まった場所が、広島市、小倉市、長崎市、新潟市。
当時、北九州市は存在しなかったため、八幡、門司、戸畑、若松は別の地域として扱っていた。
従って、小倉の隣にある八幡市は、空襲の標的とされ、8月8日に八幡大空襲に見舞われ、
2500人以上が亡くなった。

     
  煙幕の様子(訓練)  11:02 長崎原爆投下      投下地点
 
そして、運命の8月9日、原爆を搭載したB29が小倉市上空に差しかかるも、
前日の八幡大空襲の煙と煙幕を上げたことにより、投下目標地が確認できず、
長崎に変更、11時2分に松山上空で投下され、7万人以上もの尊い命が奪われた。
   
広島と長崎に投下された爆弾の種類はウランとプルトニュームを異なる。
このことは、明らかに原爆の威力を確認するための実験であった。
 

 
永井隆教授のメッセージ 長崎医科大学
自ら長崎原爆に被爆しながらも、多くの被爆者を救済しながら世界平和を訴え続け、
被爆から5年後に43歳の若さで亡くなった「永井隆教授」のメッセージを全世界に発信します。

  
  平和記念像       永井隆教授
 
たとえ針でも隠し持っているものは世界平和を祈る資格がない。
 
Message from Dr. Nagai

The person who prays for peace must not hide even needle, for a person 
possesses weapon is not qualify to pray peace.

 


 

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鉄鋼の産業発展物語 第10話 / 遠賀川水源地ポンプ室物語


ポンプ室建設の背景
官営八幡製鐵所が1901年(明治34年)に操業を開始した。
操業当初の鉄の年間の生産量は9万で、鉄づくりに必要な水の供給は構内に造られた
高見貯水池から行われていた。
その後、1904年に日露戦争が勃発し、兵器や弾薬の生産のため鉄の需要が26万トンと
大幅に高まった。そのため1906年に第一次拡張計画を策定し、年間の生産量を18万トンに
増やすために設備を拡張することになった。
鉄づくりには大量の水を必要とし、高見貯水池では対応できないため、新たな水源を
遠賀川に求めた。

   
 
そしてポンプ室を八幡製鐵所から最も近い中間市に設け、配管を使って
送水するようにした。
 

 
ポンプ室の建設
ポンプ室の建設が1906年から始まり1910年に完成した。

配管の総延長は12k送水システムの設計は近代水道の父を呼ばれる

東京帝国大学教授の中島悦治氏によるもので石炭ボイラーと蒸気ポンプは

イギリスから輸入した

 

  

 
当初は筑豊の石炭を燃焼させて蒸気をつくっていたため、煙突も設けられていたが、
今は解体されている。
また、敷地内には筑豊から輸送してきた石炭の卸場やトロッコ列車の跡も見つかっている。
ポンプ室の建屋は、奈良国立博物館の設計も行った舟橋喜一氏によるもので、
平屋建ての煉瓦造り、幅20mx長さ40m。
赤煉瓦と一部コーナーの柱には黒田泰造が開発した鉱滓煉瓦(鉄づくりの時の副産物である
鉱滓を使った煉瓦)が使用されている。
大正期には約50名の従業員が働き、ポンプ室の周りに官舎も建てられていた。
 
1950年(昭和25年)には電動モーターを使ったポンプに取り換えられ現在に至っている
そして操業開始から100年以上経過した今でも、当時と変わらぬ威厳のある姿のポンプ室から、
毎日八幡製鐵所で必要とする水の約70%を休みなく送り続けている製鐵所の心臓部である。

  
 

このことはまさに世界遺産に登録された明治日本の産業革命遺産を代表していると
いっても過言ではない

 


 

 

鉄鋼の産業発展物語 第11話 / 堀川物語

 
長年の人々の願い、多くの人々の尽力によってつくり上げた堀川・宝川 
 
堀川とは、遠賀川と洞海湾を結んだ人口の河、そのルートは遠賀川から
八幡西区・楠橋、中間市、水巻町そして八幡西区・折尾を経由して
洞海湾洞海湾に繋がる、堀川の全長は12.1Km。

      
 

江戸時代初め、遠賀川はいく度も洪水を起こし周囲の村々に大きな被害をもたらした。
このような状況下、筑前藩主黒田長政が、遠賀川の支流をつなぎ、洞海湾にその水を
灌ぐことで洪水や、干ばつの被害を防ぐ目的として堀川を建設することにした

1621年に着工し、建設中には幾多の困難に直面し、途中で工事の中断もあるが、

   
 
多くの人々の知恵と汗の結晶で183年もの歳月をかけて1804年に完成した。
そして、人々が安心して生活を営める環境が整い、堀川は宝川と呼ばれるようになった。
 
当時筑豊炭鉱で産出された石炭は、遠賀川から芦屋又は江川経由で全国に
運ばれていた。
堀川が完成後は川ひらたを使い堀川を経由して若松に運び、そこから全国に
運搬されるようになる。

   
 
1842年には堀川を通過した川ひらたの数が1万隻になり、経由地の中間、水巻
折尾が繁栄していく
明治に入り、堀川を通過する川ひらたの通過数も大幅に増え、
日本の産業近代化に大きく貢献してきた
 
しかし、1891年に直方と若松を結ぶ筑豊興業鉄道が開通してから、堀川経由で運ぶ石炭の量が
だんだん少なくなり、1932年(昭和12年)には175年に及ぶ長い期間貢献し続けてきた水運の
歴史が幕を閉じた。

     
 
水運の役目を終えた後も、水田用に用いられていたが、鉱害により河川の地盤沈下や
微粉炭が堀川に流れ込んだため、水田の用水確保が困難になり、1972年にはパイプに
よって水田に給水するようになった。
 
      
 
また、堀川建設時には、堀川と遠賀川支流が交差する部分に伏越(逆サイフォンの
原理を使った川の交差点)を設けたが、洪水対策を目的として、1986年(昭和61年)に
曲川の伏越が撤去され、翌年には堀川が鉄板で塞がれ、遠賀川は途中で寸断された形をなり、
遠賀川の水が洞海湾に流れないようになった。
  
   
 

完成から200年以上経過した堀川を、再度綺麗な水が流れる川に甦らせて、

宝川と呼べるようにしましょう!

 


 

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