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Kyushu Travel Guide

長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録

 

嬉しいニュース、私の生まれ故郷の原城が世界遺産に登録。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産。

 

今まで、隠れキリシタンとか島原の乱とか、幕府に反対した負の事柄として取り扱われてきた歴史。

人々が長年守り続けた信仰、世界が認めた人々の営み。

これから、中立な立場で、公平な立場で、我が故郷の素晴らしい世界遺産を多くの人々に

紹介して行きます。

 

原 城

大浦天主堂

外海の出津集落

日本26聖人殉教地 (関連遺産)

雲仙地獄 (関連遺産)

 

 


 

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ほたるの里・南丘のどんど焼き

JR小倉駅並びに製鉄所からわずか4kmに位置する住宅街。

なんと市街地に近い地域で、ほたるが生息しているのは全国的にも珍しい。

 

 

 

水の汚染が進んだ昭和40代に、小熊野川の清掃活動から始まり

地道な取り組みで、ほたるが飛び交う、環境に優しい地域となった。

ほたると共生するまち南丘の真骨頂は団結力。

 

年間を通して多くの行事が行われ、その一つであるどんど焼きが本日行われました。

 

   

 

 


 

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日本人の心に感じる登山道

北九州の良いところを見つけました。
 
小倉南区に剣立山の登山道、日本人のこころを感じるところ
  
 
ここは小倉南区の横代校区の皆さんが地道に整備され
いまでは、誰でも気軽に楽しめる晴らしい登山道となっています。
登山口は長野緑地のところにあります。
 
  
 
外国人にトレッキングコースとして紹介しようと思ってます。
 
  
 
  

 


 

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天皇皇后両陛下提灯奉迎

天皇皇后両陛下が10月27日から福岡県をご訪問されています。
宿泊は北九州のリーガロイヤルホテル。

朝倉、日田の被災地をご訪問され
29日は宗像を訪れれれた後
北九州で天皇皇后両陛下提灯奉迎が行われました。 
 

国家の繁栄と国民の幸福のために、常に国民とともに歩まれている両陛下を
お迎え出来たことは、私自身にとって、北九州市民として嬉しく、誇りに思います。

本日は最高の感激でした、そして両陛下がこれからもお元気で
我々を見守って頂けるよう願いました。


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朝倉地方の状況

 

7月に発生した九州北部豪雨によって、多大な被害があった朝倉方面
災害発生後初めて訪問しました。

まだまだ災害の傷跡が残っているところが沢山ありますが、
道路の復旧に急ピッチで進められいます。
是非多くの皆さまに訪問してもらいたいとの思いで、その様子を紹介します。

 

三連水車
  
短期間で復旧がなされ、全ての水車が稼働中、しかし田んぼやぶどう畑など

大きな被害にあった。

 

山田堰
  
筑後平野に水を送るために、江戸時代に筑後川に造られた堰。石積の堰は日本でここだけ。
流木も撤去さて、ほぼ平常に機能している。

 

原鶴温泉
 
全ての宿泊施設で平常通り営業中、但し今年の鵜飼は中止された。

 

久留米市 田主丸のぶどう園
 
特に大きな被害もなく、通常通り営業中。

 

にじの耳納の里
  
うきは市の野菜や果物を取り揃えているところ、平常通り営業中

 

ちくご手づくり村
  
麺づくり体験もできるところ。

 

ハトマメ屋
  
創業・明治18年、朝倉名物のお菓子屋さん、是非お土産にどうぞ。

 

東峰村
  
最も被害が大きかった場所の一つ、まだまだ復旧に時間がかかりそう。

 


 

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北九州が舞台となった、日本の産業近代化の歩み

北九州がつくった日本の産業近代化の礎
     北九州を舞台とした 日本の産業発展の道のり!
 
北九州の官営八幡製鉄所の施設が世界遺産となった。
登録の目的は、『日本の急速な産業発展』についての歴史と人々の営みを
世界中の人達に伝えること。
     
 
北九州の歴史を辿れば、日本の産業発展の道のりが見えてくる。
     
この資料は、産業近代化の視点から、ジャパン九州ツーリスト株式会社が独自で歴史を
調査・研究して、「日本の急速な産業発展」
として編集したものです

 

製鉄・鉄鋼産業に焦点を当て、どのようにして世界一の工業立国となったか
堀川の建設から、筑豊炭鉱との関わりも含め、現在の環境未来都市・北九州までの歴史を紹介します。
堀川建設 1621年(慶長5年)~1801年(寛政13年)
遠賀川周辺の洪水対策として人口の河川・堀川が1621年から180年の歳月をかけて1801年に完成。
明治に入って石炭輸送用として利用。
  
      堀川の様子               寿命の唐戸              JR折尾駅付近

 

筑豊炭鉱 1700年代(江戸中期)~1976年(昭和51年) 
室町時代に香月で発見、江戸中期から塩田用燃料として炭鉱開発が始まり、1872年(明治5年)鉱山解放令
から筑豊御三家(麻生太吉、貝島大助、安川敬一郎)を中心に急速に鉱山開発が進み、戦前は日本最大の産炭地。1976年(昭和51年)貝島炭鉱閉山を最後に筑豊炭鉱の幕を閉じる。
      
    筑豊石炭組合                山本作兵衛の世界記憶遺産    貝島炭鉱 ドイツ製機関車

 

門司港 特別輸出港に指定 1898年(明治31年)   産業近代化の起点
石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目の特別輸出港に指定され築港工事が開始された。
金融機関や商社・海運会社の支店が相次いで進出し、外国航路の港としての歴史が始まる。
             
    開港当初の門司港             石炭積出し          現在の門司港

 

九州鉄道開通 1889年(明治22年)
1889年 九州鉄道の起点門司駅が開設(現在の門司港駅の東側)
1897年 筑豊鉄道を吸収合併し、筑豊炭坑からの石炭輸送を可能とし、門司港が石炭の
積出港として繁栄。
           

  九州鉄道の起点             九州鉄道旧本社              現在の門司港駅

 

若松港築港 1890年(明治23年)~1898年(明治31年)

普通の漁村にすぎなかったところを、石炭の積出港として築港、最盛期には日本一の
貨物取扱量を誇った。
      
    若松港                                           石炭会館                ごんぞう小屋                   

 

筑豊興業鉄道開業  1891年(明治24年)
石炭専用の運搬鉄道 直方〜若松間が開業
     
     開業当初の若松駅         1970年代の直方駅           現在の若松駅

 

製鐵所建設計画 1891年(明治24年)に開始
中国で製鉄所建設され、日本の製鉄所建設に拍車がかかる。
野呂景義により年間6万トンの製鉄所を計画。
              
            橋野高炉跡                              筑豊炭鉱                野呂景義

 

日清戦争後の製鉄所建設構想 1896年(明治29年)
 1896年に和田維四郎により、大幅に製鉄所建設計画が変更し、年間9万トンとした。 
            
             春帆楼                     日清講和条約               和田維四郎

 

建設場所の決定 1897年(明治30年)
全国で17ヶ所選ばれ、門司の大里が第一候補地となる。
大里は、筑豊炭鉱に近く、広大な湿地帯、海陸の交通、労働力の面で有利
八幡は水深が浅いことが難点、それ以外は石炭入手の面等でベスト、安川敬一郎が政治化を動かす。
      
           門司・ 大里                    八 幡                  安川敬一郎

 

八幡で建設用地を確保 1897年(明治30年)
当時は自然豊かな寒村、芳賀種義八幡村長が、『八幡村に製鉄所を、日本の鉄づくりは八幡から』
熱心に村民を説得し広大な土地を売り出した。 → 1897年八幡村に決定
 
       製鉄所建設前の八幡村                           芳賀種義

 

●製鉄所建設 1897(明治30年)~1901年(明治34年)
長閑な寒村だった八幡村の地に、わずか3年間で製鐵所を完成させる。
旧本事務所、旧鍛冶工場、修繕工場(以上世界遺産)、東田第一高炉、軌条ロール工場、大型ロール工場、
中型ロール工場、小型ロール工場、薄板ロール工場、高見貯水池、炉材工場他
    
     岸壁建設の様子               旧本事務所            東田第一高炉

 

東田第一高炉火入れ    1901年(明治34年)
ドイツのGHH社の技術で設計・建設そして操業を開始するも、故障の連続で惨憺たるすべり出し。
所定の出銑量がいつまでたっても出ないありさま。
その危機を救い、日本の産業発展の礎を築いたのが野呂景義
          
           東田第一高炉                  製鉄所の様子                野呂景義

 

鈴木商店 門司に進出 1904年(明治37年)~
国際貿易港として繁栄していくなか、製鉄所建設の候補地ともなった門司・大里地区に神戸の貿易商
鈴木商店が進出してきた。
1904年(明治34年):大里製糖所(現在の関門製糖)、1912年(明治45年):帝国麦酒(現在のサッポロ)
1914年(大正3年):大里酒精造所(現在のニッカウヰスキー
         
        ニッカウヰスキー               関門製糖              帝国麦酒(門司麦酒煉瓦館)

 

八幡製鐵所/第一次拡張期 1906年(明治39年)~1910年(明治43年)
日露戦争が膨大な軍事物資供給が必要となり、鋼材生産量年間18万トンに拡張。
東田第三高炉、分塊工場、小形工場、線材工場、鉱滓煉瓦工場他、八幡泊地
  
     東田の高炉群              製鉄所の様子             製鉄所周辺の住宅

 

八幡製鐵所/八幡泊地 1906年(明治39年)~1925年(大正14年)
原料の荷卸し、成品の積出の為に岸壁が建設された。
西田岸壁東部:1906年、中央岸壁:1920年、堂山製品岸壁及び松ヶ島岸壁:1922年
西田岸壁西部:1925年
    
     八幡泊地全景              中央岸壁               堂山製品岸壁

 

安田工業 八幡で洋釘造りを開始 1908年(明治41年)
1897年(明治30年)、安田財閥の創始者・安田善次郎が、東洋で初の釘製造を決意し、

東京深川で、東洋初の洋釘の製造販売を開始。
1908年(明治41年)に八幡工場を建設し、八幡製鐵所で製造した、国産線材を使った
洋釘づくりが始まる。

           
     辰野金吾設計の工場     八幡製鐵所から材料を運んだ線路の跡       工場の様子

 

明治専門学校の開校 1909年(明治42年) 
日本の産業発展に、理想的な工業技術者の育成を目的として、安川敬一郎

松本健次郎親子が設立した。
初代総裁に山川健次郎を迎え、「技術に堪能なる士君子」の養成を掲げ、

その後の産業発展に大きく貢献、1949年(昭和24年)現在の九州工業大学となる。
   
     旧本館 辰野金吾設計           当時の機械               現在の正門

 

八幡製鉄所/遠賀川水源地ポンプ室(世界遺産) 1910年(明治43年)
製鉄所拡張計画に伴い、大量の水が必要となり、遠賀川から製鉄所まで水を送るため、

遠賀川水源地ポンプ室が造られました。 現在も現役として稼働中。
      
           遠賀川水源地ポンプ室                    送水管

 

八幡製鐵所/第二次拡張期  1911年(明治44年)~1915年(大正4年)
日露戦争後、鉄道、造船更には工場・道路・港湾等の整備のための鋼材需要が大きく伸び、鋼材の
年産30万トンに能力アップ。 東田第4高炉を中心として、製鋼・圧延部門を増強。

 1912年の製鉄所の状況

 

多くの企業が北九州で誕生 1910年(明治43年)~
1910年(明治43年):森田範次商店(現在のシャボン玉石けん)
1911年(明治45年)田村汽船(現在の日本水産)、出光商会(現在の出光興産)
1915年(大正4年):安川電機製作所(現在の安川電機)
1917年(大正6年):東洋陶器(現在のTOTO)、
1918年(大正7年):黒崎窯業(現在の黒崎播磨)、山九運輸(現在の山九)
                 
        シャボン玉石けん           安川電機                  TOTO

 

八幡製鐵所/第三次拡張期  1918年(大正7年)〜1929年(昭和4年)  
第一次世界大戦下の輸入断絶、民間需要拡大に対応するために、年産75万トンに能力アップ。
東田第5、6高炉、コークス炉新設、銑鉄鋳銑機、第三製鋼工場、珪素鋼板工場、河内貯水池
養福寺貯水池他
   
     東田の高炉群          八幡製鉄所で作った国会議事堂の鋼材

 

他の製鉄会社の創業 1917年(大正6年)、1918年(大正7年)
日本の鉄鋼需要増大に伴い下記の製鉄所が北九州で生まれた。
・1917年:九州製鋼所(八幡)、 後の新日鉄、現在の新日鉄住金 八幡製鐵所 
・1917年:東洋製鉄(戸畑)、後の新日鉄、現在の新日鉄住金 八幡製鐵所 
・1918年:浅野小倉製鋼所(小倉) 後の住友金属小倉製鉄所、現在の新日鐵住金八幡製鉄所
      
     東洋製鋼所(現在の戸畑)        浅野小倉製鋼所(現在の小倉)

 

八幡製鐵所/本事務所移動 1922年(大正11年)
・初代本事務所:1899年に建設された赤煉瓦2階建て、製鉄機械同様に

ドイツの建築様式を取り入れた
当時としては、最もバタ臭い(西洋風)なものであった。
・2代目本事務所:官界、経済界に誇るべき地位を示すために、

所要資材全てを八幡製鐵所のものを使ったルネッサンス様式の3階建てのモダンな事務所。 

1922年から使用された。
     
      初代本事務所              2代目本事務所

 

八幡製鐵所/河内貯水池 1919年(大正8年)~1927年(昭和2年)
土木技師・沼田尚徳の指揮のもと、8年の歳月をかけて完成させた、自然と調和した、第一級の
近代化産業遺産。 完成当時は東洋一のダム。
    
   建設の様子                   堰 堤                 南河内橋

 

八幡製鐵所/くろがね線 1927年(昭和2年)~1930年(昭和5年)

3年の歳月をかけてつくった、八幡と戸畑地区を結ぶ製鉄所専用の鉄道。

その工事は製鉄所の社員で行い、中間地点に当たる総延長1180mの宮田山トンネルは
出水等に見舞われて難工事だった。
    
   宮田山トンネル戸畑側入口      宮田山トンネル八幡側入口             枝  光

 

八幡製鐵所/厚生施設 & 守護神
大谷会館 1927年、 高見倶楽部 1928年、 高見神社 1933年
        
     大谷会館               高見倶楽部               高見神社

 

初回の八幡空襲 1944年 (昭和19年) 
B29による日本本土の最初の空襲が八幡製鐵所を標的としたもので、6月16日、そして8月20日に
人命と設備に甚大な被害をこうむった。東田・洞岡コークス炉、鋼板工場、西田発電そして動力・ガス・水道
電話などが寸断。また同時に北九州5市全土に多大な被害があった。
  
    B29による空襲           投下されたB29の残骸(若松)          門司の状況

 

終戦前の八幡大空襲 1945(昭和20年)年8月8日
一瞬にして目の前が煙で覆われた。2500人もの尊い命が一瞬で奪われ、町や工場も壊滅状態。
石炭の入手が困難となったが、操業を維持すべく社員が炭鉱で労働しながら危機を乗り越えた。
 
  
     八幡製鐵所の状況               前田地区の状況         

 

長崎に原爆投下 1945年 (昭和20年)8月9日

       
           原爆投下                爆心地              平和記念像
小倉が第一目標地であったが視界不良のため、第二目標地の長崎に変更。
11時2分、長崎に投下、街は壊滅的な被害を受け、多くの尊い人命が奪われた。
そして、8月15日に終戦を迎える。
長崎は、この苦難を乗り越え、美しい故郷を取り戻すために努力し、そして被爆地の使命として、
核兵器による惨禍が再び繰り返されることのないよう、核兵器廃絶と恒久平和の実現を世界に訴え続けている。

 

環境問題 1950~60年代
当時公害を防止する環境対策技術がなく、国内最悪の大気汚染と死の海と化した洞海湾。
市民運動を発端に、世界でも類の無い方法で、官・学・企業をあげた取組で公害対策を行った。
1987年(昭和62年)に、環境庁の「星空の街コンテスト」で大気環境が良好な「星空の街」に選定され
公害克服が証明された。
        
  1950年代の東田           1960年代の洞海湾         洞海湾浚渫

 

若戸大橋開通 1962年 (昭和37年)
洞海湾に架設された、若松と戸畑を繋ぐ我が国最初の吊り橋。
完成当時は東洋一の吊り橋、溶接の信頼性の問題から、リベット継手を使用した構造。
八幡製鐵所で製造した鋼材 24,000トン使用。
         
        若戸大橋全景                            若戸渡船

 

北九州市発足 1963年 (昭和38年)
明治に入り、1989年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布、各地で合併が行われ新しい村や町が出来る。
各地で産業が発達し、5市が誕生。 1899年(明治32年):門司市、 1900年(明治33年):小倉市
1914年(大正3年):若松市、1917年(大正6年):八幡市、1924年(大正13年):戸畑市
それから、5市で一大都市圏を形成しながら共通のインフラも持ちながらも、異なった行政地域であったため、
各市間を一体化して都市機能を有効に発揮し、一体感のあるまちづりをすべく、1963年に北九州市が誕生。
         
  北九州市誕生              北九州市庁舎            市庁舎に隣接する小倉城

 

1970年代の様子
    
     2代目本事務所                   皿倉山から望む八幡製鉄所

 

八幡製鐵所/東田第一高炉(第10次)  1972年(昭和47年)吹止め
1962年に第10次の改修工事を行い、24時間365日休みなく10年間操業を続け、高炉の神様
田中熊吉が生涯を全うするのと同じ年の1972年に吹止され、日本近代製鉄の聖地・東田の高炉の
幕を閉じた。現在高炉設備一式が、そのまま完全な状態で保全されている、世界で唯一の遺産。
  
   東田第一高炉全景             鋳 床                トピードカー

 

関門橋開通 1973年 (昭和48年)
関門海峡の下関市壇之浦と北九州市門司区を結ぶ、、開通時点では日本最大規模の橋。
3径間の吊り橋で、補剛桁はトラス。橋梁等の防食法には溶射が採用。
八幡製鐵所で製造した鋼材 30,000トン使用
         

 

八幡製鉄所/戸畑へ鉄源集約 1976年(昭和51年)
八幡の洞岡高炉群、焼結工場、コークス工場及び東田の製鋼工場の全ての工場を休止。
八幡地区は、圧延工場だけを残す。
戸畑地区に鉄源を移し、戸畑第一高炉と第四高炉を改修、製鋼工場を新設

若松に焼結工場を新設。
    
               戸畑地区全景              海から見た戸畑地区              高 炉

 

北九州市ルネッサンス構想 1994年 (平成6年)~
1901年に製鐵所が操業を開始し、日本の産業発展を礎を築いた場所、1972年に東田第一高炉が休止後
東田地区及び洞岡地区の製銑・製鋼関連の工場休止に伴い、広大な120ヘクタールが遊休地となった。
新日鐵は道路、電気、ガス、等のインフラを整備し、北九州市ルネッサンス構想を基に新しいまちづくりが
始まる。
    
     東田地区の全景              スペースワールド       イノベーションギャラリー&東田第一高炉

 

北九州エコタウン 1997年 (平成9年) 
あらゆる廃棄物を他の産業分野の原料として活用しする、リサイクル事業に

1997年に川取り組む企業団地で1997年に日本で初めて承認を受けた。
    
        北九州エコタウンセンター           風力発電                九州製紙

 

現在の北九州市  世界を牽引する環境都市
2008年(平成20年):環境モデル都市に認定、2010(平成22年):アジア低炭素化センターを開設、

2011(平成23年):「環境未来都市」やOECDからアジア初の「グリーン成長モデル都市」に選定。
日本の近代産業の礎をつくった北九州市、世界の低炭素化社会実現に向けた牽引役としての
新たな挑戦が行っています。

           
    
平尾台                八幡、若松地区             洞海湾

 

 

関門海峡花火大会 / 食事付・指定席で観賞

桟敷席で関門海峡の夜空を彩る花火を楽しもう!
海峡の夜空を彩る大輪の花!
                            

九州で一番人気のある「関門海峡花火大会」
  門司と下関の両岸から打ち上げられる 1万3000発の迫力ある美しい花火!
  海峡ドラマシップの桟敷席でゆっくり食事しながら、花火を楽しみましょう。
    


日 程      8月13日(日)
       ・受付・入場時間      18:30~

        ・花火打上時間      19:40~20:40

 


 

観賞場所   海峡ドラマシップ
 ・5階 レストラン 
海峡ふくステージ 
   関門海峡が一望できる最高の花火スポット
 ・2階 テラス席 
   目の前で揚る花火のド迫力が楽しめる花火スポット

アクセス : JR門司港駅から徒歩6分
                  門司区西海岸1-3-3

 

 


 

料 金

5階 レストラン     12,500円 (ふぐ定食+ワンドリンク) 
2階 テラス席       7,500円 (花火弁当+ワンドリンク)


お申込方法
下記へ電話、Fax又はEメールでご連絡ください。
皆さまのご参加を心よりお待ちしております。

お問合せ・お申込み先 
             
ジャパン九州ツーリスト(株)
 
電話 093-521-8897   FAX 093-521-8898
E
メール info@japan-kyushu-tourist.com
802-0001
福岡県北九州市小倉北区浅野3-8-1 AIMビル6

 

河内貯水池 / 世界遺産登録の引き金となった土木遺産

                                       英 語
明治日本の産業革命遺産の世界遺産登録のきっかけとなったくった
自然と調和した、第一級の近代化産業遺産 河内貯水池
 

                             土木技師・沼田尚徳の大偉業

河内貯水池は、八幡製鐵所の第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として
1919年(大正8年)に竣工し、8年の歳月をかけて、延90万人の人々の手で
1927年(昭和2年)に完成した。

その総指揮者が、土木技師の沼田尚徳当時は東洋最大級のダムで、
「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と情熱を
注いだ大事業。

河内貯水池は近代化産業遺産としての価値だけでなく、
北九州国定公園の自然と調和した、心和む河内貯水池へ是非お越しください。
この美しい景観の裏側に秘められた、「愛と情熱」の物語がここにあります。

    

 


かつての河内地域は、八幡製鐵所から南10㎞ほど谷あいの31戸が暮らす
自然豊かで平穏な農村、また都市の児童の山村留学も受入れている教育先進地域

    
その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。

ダムには当時最新の土木技術をふんだんに用い、一方で現場の石材や自社鋼材を
用いた独自の設計で土木構造物への新しい挑戦をした。
更に環境にも優しい工法を積極的に採用し将来市民の憩いの場所をすべく、
橋から取水塔、管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。

  
このことは、先祖代々の土地と故郷の美しい自然を提供し、建設に協力を惜しまぬ
村人へ何としても恩返しでもあった。
安全管理でも最新の配慮がなされ、当時の西日本最大級の難工事にも関わらず8年の
建設期間中1名の死者も出さなかった。

80年経過した今でも給水の本来の機能を果たしながら、憩いの場として多くの人達の
親しまれている。


 

●独特の英知を凝らして作った堰堤 ヨーロッパの古城をイメージ
当時コンクリートは高価の為、粗石を混ぜて使用、銅板を内部に入れた伸縮継手で
亀裂を防止した。
  
工事段階での型枠代わりに石壁をつくり、ダム完成の耐久性を確保。
  
使用した切石は12万個、加工時発生した小さな石も、付帯建築物に張付けて
美観に優れたダムを作り上げた。

 


悲しみを乗り越えて

河内貯水池建設中、沼田尚徳は現場では明るく振る舞っていたが、数々の悲しみを心に
押し潜めていた。
山の神はこの大事業と引き換えにかけがえのない家族を貢ように強いていたようでもあった。
父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが妻泰子。
しかし、最愛の妻もダムの完成を待たずして猩紅熱でこの世を去ってしまった。
  
その後母も亡くなり、家族をダムが人柱として飲み込んでしまったような悲劇であった。

河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、
妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。
  
碑の両面には、漢文と英文でその思いが刻まれている。
  
     漢 文(河内貯水池側)          英 文(神社側)
【漢文】

愛する妻の魂はどこにあるのか。麗しきあの人と今は世を隔て、
素晴らしき日々は夢に帰してしまった。散り行く桜の前にたたずむと断腸の思い。
【英 文】
IN MY MEMORY OF MY LATE BELOVED WIFE MRS. YASUKO NUMATA 
THROUGH WHOSE SELF-SACRIFICE AND UNDER GOD’S BLESSING 
I HAVE ENABLED TO CONSTRACT KAWACHI WATER WORKS.
 

この神社は今でも地元の人達によって清掃され、更に泰子さんの為にと
花も植えられている。


河内貯水池にかかる橋

自然との調和をコンセプトにし、当時の技術を結晶し、創意工夫して設計で、
それぞれの場所の景観に合わせて作った橋。
①太鼓橋
堰堤から眼下に見える、当時日本でも珍しい鉄筋コンクリートの橋
  

スパン28m、最少厚さ20cmの薄っぺらい板の橋、スパン/最少厚の比が140という
世界的にも類の無い橋。80年経った今でもヒビ一つも入っていない沼田尚徳の傑作品。

②北河内橋
一見すると鉄筋コンクリートの橋に見えるが、実はやじろべ形状の鉄骨梁を三つ並べ、
コンクリートで覆った橋。
    

鉄で強度を持たせ、コンクリートで座屈や錆を防止した。

 

③中河内橋
鉄をつくり時の副産物・スラグからできた鉱滓煉瓦を使った、三連絡アーチ橋。
  
別名を眼鏡橋と言う。
 
④南河内橋
日本で唯一残るレンティキュラー・トラス橋(レンズ型のトラス橋)。
出張中に見た欧米にかかるこの橋をみてデザインした鉄骨の橋。
  
この形と色が実に自然と調和し、鉄の街八幡のシンボルとなっている。
全て八幡製鐵所の鋼材を使い、設計も全て自社で行った。

 


河内桜公園
春になると、桜の咲き誇る花見の名所です。堰堤の下流側に位置しています。
   
          桜公園の地図                   桜吊橋

  
             弁 室                   亜字池(浄水場)


河内貯水池地図

 

 

桜の名所 小倉城

北九州の桜の名所 小倉城

 
本日はだいぶん花が開きました。

 

 

河内貯水池建設物語

明治日本の産業革命遺産の世界遺産登録の引き金となった
   河内貯水池の裏側に秘めら物語


河内貯水池は、八幡製鐵所の第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として
1919年(大正8年)に竣工し、8年の歳月をかけて、延90万人の人々の手で1927年(昭和2年)に
完成した。

その総指揮者が、土木技師の沼田尚徳当時は東洋最大級のダムで、
「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と情熱を
注いだ大事業。

河内貯水池は近代化産業遺産としての価値だけでなく、北九州国定公園の自然と調和した、
心和む場所。

   
この美しい景観の裏側に秘められた、「愛と悲しみ、そして情熱」河内貯水池物語
紹介します。

 

 


水戸藩の沼田家

1875年(明治8年)、水戸藩に代々仕えた武家の家系で生まれた。
沼田家は尊王攘夷派/天狗党結成の発起人の一人である伯父沼田順次郎、
藩幹部の筆頭書記官で祖父沼田久次郎を持ち、そして祖父とともに「大発勢」と呼ばれる
討伐隊に加わり、明治維新後は教育者の道を歩んだ沼田順三郎の長男として生まれた。
 

 


青年時代

1894年(明治24年)旧制第一高等中学に入学、そして新たに新設された京都帝国大学に
1897年(明治30年)に入学し土木技術や鉄筋コンクリート技術学び、更に水道施設や
琵琶湖疏水などの技術にも関心を持っていたと言われている。
 

 


官営八幡製鐵所に入社

1900年(明治33年)に京都帝国大学を第一回生として卒業、当時建設中だった
官営八幡製鐵所に土木技師として入社した。
    
1901
年(明治34年)に東田第一高炉に火が入り、日本で初めての銑鋼一貫製鐵所が
操業を開始する。
 
1902年(明治35年)に技師を命じられ、1911年(明治44年)に修築科長となり、
1915
年(大正4年)にはアメリカとイギリスに出張した。
  
手がけた工事は繋船壁築造工事に始まり、40万坪の洞岡埋築、くろがね線建設そして
河内貯水池や養福寺貯水池建設といずれも当時の日本で最大級の土木工事ばかりである。
 

 


最初の挫折

1916年(大正5年)に竣工した下大谷貯水池が、わずか1ヶ月余りの後に豪雨で脆くも決壊し、
製鉄所や付近の住宅地域に多大な被害を及ぼし住民
1名の尊い命を奪う大惨事を引き起こした。
事故の原因は堰堤の強度不足であった。事故により尊い命が犠牲になったことが大きな
心の痛手となり、その後この教訓から、建設現場を自らの足で歩き自分の目で確認する
現場第一主義の仕事スタイルを育んでゆく。
 

 


渾身の大事業、河内貯水池 「土木は悠久の記念碑」

製鉄所第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919年(大正8年)に竣工し、
8年の歳月をかけて1927年(昭和2年)に完成した。
当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく
英知と情熱を注いていく。

かつての河内地域は、八幡製鐵所から南10㎞ほど谷あいの31戸が暮らす
自然豊かで平穏な農村、また都市の児童の山村留学も受入れている教育先進地域

    
その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。

ダムには当時最新の土木技術をふんだんに用い、一方で現場の石材や自社鋼材を
用いた独自の設計で土木構造物への新しい挑戦をした。
更に環境にも優しい工法を積極的に採用し将来市民の憩いの場所をすべく、
橋から取水塔、管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。

  
このことは、先祖代々の土地と故郷の美しい自然を提供し、建設に協力を惜しまぬ
村人へ何としても恩返しでもあった。
安全管理でも最新の配慮がなされ、当時の西日本最大級の難工事にも関わらず8年の
建設期間中1名の死者も出さなかった。

80年経過した今でも給水の本来の機能を果たしながら、憩いの場として多くの人達の
親しまれている。


 

●独特の英知を凝らして作った堰堤 ヨーロッパの古城をイメージ
当時コンクリートは高価の為、粗石を混ぜて使用、銅板を内部に入れた伸縮継手で
亀裂を防止した。
  
工事段階での型枠代わりに石壁をつくり、ダム完成の耐久性を確保。
  
使用した切石は12万個、加工時発生した小さな石も、付帯建築物に張付けて
美観に優れたダムを作り上げた。

 


悲しみを乗り越えて

河内貯水池建設中、沼田尚徳は現場では明るく振る舞っていたが、数々の悲しみを心に
押し潜めていた。
山の神はこの大事業と引き換えにかけがえのない家族を貢ように強いていたようでもあった。
父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが妻泰子。

しかし、最愛の妻もダムの完成を待たずして猩紅熱でこの世を去ってしまった。

  

その後母も亡くなり、家族をダムが人柱として飲み込んでしまったような悲劇であった。

河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、
妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。
  
碑の両面には、漢文と英文でその思いが刻まれている。
  
     漢 文(河内貯水池側)          英 文(神社側)
【漢文】

愛する妻の魂はどこにあるのか。麗しきあの人と今は世を隔て、
素晴らしき日々は夢に帰してしまった。散り行く桜の前にたたずむと断腸の思い。
【英 文】
IN MY MEMORY OF MY LATE BELOVED WIFE MRS. YASUKO NUMATA 
THROUGH WHOSE SELF-SACRIFICE AND UNDER GOD’S BLESSING 
I HAVE ENABLED TO CONSTRACT KAWACHI WATER WORKS.
 
この神社は今でも地元の人達によって清掃され、更に泰子さんの為にと
花も植えられている。

 
企業利益より社会貢献 沼田尚徳の美学

実直でロマンティストの沼田尚徳は、営利栄達にはあまり縁がなかった。これほどの大事業を成功させ、
製鉄所と八幡市の発展の礎を築いき、勲三等瑞宝章まで授与され、製鉄所では土木部長でありながら
製鉄所長官に次ぐ処遇を受けていた。
にも関わらず、1930年(昭和5年)に55歳の誕生日を待たずして静かに勇退した。
その後、八幡、戸畑、若松市の委託として三市の上水道整備を指導し多大な貢献をし、
日本最大の軍事工場であった小倉陸軍造兵廠の土木関連業務も手がけたが、
1934年(昭和9年)に全ての職を辞し田舎に陰棲した。
 

 


遠 想

河内貯水池の堰堤を見下ろす小高い場所にヨーロッパの古城を模したと言われる管理事務所が建っている。
その出入り口に沼田尚徳の「遠想」の言葉を刻み込んだ石の掲額が残されている。
ここから河内貯水池を静かに見下ろしながら、遠く未来の想いを馳せているに違いない。
その未来の姿はどのようなものであったのであろうか。それは百年経った今でも人々の
潤し続ける河内貯水池の姿、そして彼が残した礎の上にいつまでも成長を続ける
日本の未来だったのではなかろうか。
 

 


本投稿は、西日本ペットボトルリサイクルの千々木亨氏の論文 鉄都に生きる男たちから
引用させてもらいました。