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世界遺産物語 / 明治日本の産業革命遺産  

 
日本の産業近代化成し遂げた!基幹産業『製鉄・鉄鋼物語』
 
この物語は、農業や漁業の第一産業が主だった江戸時代に遡り、
なぜ産業革命が起こり、どのようにして今日の世界一の工業立国に
なったのかを、基幹産業である製鉄・鉄鋼に焦点を当てながら3篇にわたり紹介します。
 
          

第一篇 古来の鉄づくりから官営八幡製鐵所創業までの歩み
 ・第 1話 日本最古の鉄器は糸島で出土
 ・第 2話    種子島に鉄砲伝来
 ・第 3話 江戸幕府の政権安定策と鉄づくり
 ・第 4話 幕末の日本に変化が起きる
 ・第 5話 日本の産業革命の始まり 
 ・第 6話 反射炉で始まった日本の鉄づくり
 ・第 7話 釜石で始まった洋式高炉による鉄づくり

   ・第11話  堀川物語

 

第三編 戦後復興から世界一の工業国への道のり

      
  

 


 

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世界遺産物語 第1話 / 日本最古の鉄器は糸島で出土

 
 ●明治日本の産業革命遺産

201575日に世界文化遺産に登録された、製鉄・製鋼、造船及び石炭産業の
遺産群で、8県(岩手県、静岡県、山口県、福岡県、佐賀県、
熊本県、長崎県、
鹿児島県)にまたがる23の施設で構成されている。

 

   

 

登録された目的は、施設そのもの(有形)の価値が認められたのではない。
世界中の誰もが成しえなかったことを、ドラスティックな産業革命とその後の
急速な産業発展(無形の事柄)が高く評価されたことによる。

 

【世界遺産物語とは】
ヨーロッパに比べて重工業が非常に遅れていた日本が、どのようにして
ヨーヨッパから技術を学び、産業革命を行い、急速な産業発展がなされたのかを
時代を遡ってその物語を紹介します。

 

●物語の始まり
鉄は稲作とともに伝わったと言われている。

日本で最も古い鉄器は、縄文時代(紀元前3~4世紀)と言われていれ、
福岡県糸島市二丈町で出土した。

 

  


弥生時代
に入ると、稲作も盛んになり、斧や鍬など農機具が鉄で
造られるようになる。
その方法は「たたら製鉄」によるもので、砂鉄を用い、木炭の燃焼熱によって
砂鉄を還元し、鉄をつくる方法。
 
古代のたたら製鉄は、北部九州、中国地方や東北など始めとする
日本各地で行われた。
11世紀以降、砂鉄の豊富な中国地方で大型炉による鉄づくりが始まった。
15世紀の室町時代後半に入ると刀の需要が急速に増え、各地で刀鍛冶が
発達して行く。
 
1543に、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えた。
その一年後の1544年には、種子島の鍛冶工・八坂清定が日本初の鉄砲をつくった
その方法は、鍛造で鉄の板をつくり、それを丸い棒に巻き付け、
溶着させる。ねじのない時代に鉄製の栓をつくり、それを溶着させて
片方を塞ぎ、苦心の末鉄砲を完成させた。
恐るべき創造力と職人業であり、これが今日のものづくり日本の原点ともいえる。
 
その後、刀鍛冶の盛んな地域である、和泉・堺近江・国友近江・日野
備前・長船、そして城下町鹿児島仙台などで鉄砲が造られるようになる。

そして、豊臣秀吉の時代に入って、刀や鉄砲づくりの技術は更に進んでいく。
 
 
 

世界遺産物語 第2話 / 種子島に鉄砲伝来

 

日本に大きな変化が起きる


1543年にポルトガル人が、種子島に来て鉄砲を伝えられ、それを機に
外来の文化が入り始め、日本の中に変化が起き始める。

   

そして、1549年にはフランシスコ ザビエルが薩摩に来て、それから平戸、
山口などを訪問しキリスト教を伝えた。
1571年にはポルトガル船の寄港地として長崎が開港され、長崎の統治を
イエズス会に託す。

豊臣秀吉は外国に日本が占領されるのではないかと、1587年のバテレン追放令を出し、

キリスト教と南蛮貿易を禁止する。

そして1588年には、豊臣秀吉が幕府の長崎を直轄地とする。
ポルトガル人に侵略を阻止するための手段として、キリスト教を封じるため、
1597年2月5日に26人のキリスト教信者が長崎の西坂の丘で磔によって処刑される。
後にカトリック教会に「日本26聖人」をして聖人に加えられた。


 
そして、1598に豊臣秀吉が生涯の幕を閉じ、時代は変わって行く。

鉄砲伝来後、日本の鉄づくりが急速に発展する。

 

 
 

世界遺産物語 第3話 / 江戸幕府の政権安定策と鉄づくり

  
豊臣秀吉の死後、1600年の関ヶ原に勝利した徳川家康は、1603年に江戸幕府を創設した。
そして1867年の大政奉還までの260年間の長きにわたって武家政権が続いた。

幕府は様々な施策を講じて長期政権の安泰を図る。

 

    

 
日本の植民地化を防ぐために、1612年にはキリシタン禁止令を発令した。
そして、鎖国政策をとり、外国との交易を制限する。
既に、豊臣秀吉が発令したバテレン追放令(ポルトガルとの交易を断絶)に続き、
1624年にスペインとの国交も断絶した。
1635年には長崎の出島でオランダと中国のみとの交易に限定した。
実際には、薩摩に支配されていた琉球王国での中国との交易や渡島半島の松前氏
による北方交易も行っていた。
 
そして、国内重視の政策をとり、武家諸法度をつくって幕府に反抗できないようにした。
更に、大型船の製造禁止参勤交代一国一城令手代普請など実施し
江戸幕府防衛を行っていき政権が安定してくる。
 
江戸時代初期・中期の鉄づくり

幕府の政策によって、世の中は落ち着き、城下町や都市の形成に伴って、
市民生活に必要な鉄の需要が高まった。

 


 

製鉄用のたたら炉の大型化、地下構造の充実が進み、輸送・流通事情も改善され、
鉄生産が中国地方に集約されるようになり、製鉄技術も進歩して行った。

第4話は幕末に舞台が移る。

 

 

 

世界遺産物語 第4話 / 幕末の日本に変化が起きる

 
鎖国政策で海外との交易をオランダと中国に限定していたが、17世紀に入って
次第に外国船が来航し、日本との交易を求めてきた。

1647
年にポルトガル、1673年にはイギリスが国交回復のため来航、1894年には

長崎にロシアが来航するも幕府は断り続けた。

 

  

 
 

1824年には、水戸の大津浜に英国捕鯨船員が上陸する事件、1837年にはモリソン号事件
日本人漂流民を乗せたアメリカ商船が鹿児島湾と浦賀沖に現れ、日本が砲撃した。

1840年のアヘン戦争でイギリスが中国を占領した情報も入り、日本各地で海防強化の

気運が高まった。

 

1847年には長崎の警備を担当する佐賀藩の鍋島直正が幕府に海防の必要性を献策するも、

その提案は却下された。

そして、1853には決定的な出来事である、アメリカのペリー率いる黒船が来航してきた。

 

 
 
植民地化の危機が迫る日本はどのように対応していくのか?
 

つづきは第5話で紹介します。

 

 
 
 

世界遺産物語 第5話 / 日本の産業革命の始まり

 
300年も遅れていた日本の鉄づくり
日本で初めて、佐賀藩で反射炉法による鉄づくりが行われた1853年当時は、
ヨーロッパに対して約300年以上も技術が遅れていた。
 
 

1490年にはイギリスで高炉操業が始まり、1543年には鋳鉄製大砲の生産を開始した。

そして、1709年にはコークスによる高炉操業に成功した。

1783年にはパドル法反射炉が開発されたが、反射炉では高品質の鋼を効率的に
量産できなかった。 そのから、次第に高炉法による鉄づくりに移行していった。

 
そして日本で初めて反射炉で鉄づくりが始まった時は既に、高炉法によって
高品質の鉄を連続的に量産できる技術が発達していた。
 
日本の産業革命の始まり

鎖国政策で海外との交易をオランダと中国に限定していたが、次第に外国船が来航し、
日本との交易を求めてきたが、幕府はそれを断り続けた。

 

    
   鍋島直正      技術書        反射炉

 
しかし、植民地化の危機が迫って来たため、日本各地で国防の機運が高まった。
そして、最初に行動を起こしたのが、長崎の警備を担当する佐賀藩鍋島直正で、
1847年に幕府に海防の必要性を献策するも、その提案は却下された。
そのため、佐賀藩は独自で動いた、それが大砲をつくるための反射炉をつくることであった。
しかし、上述のようにヨーロッパに対して300年も技術が遅れている日本が、外国の技術者を
招聘することの叶わない時代でもあった。
そこで、鍋島直正はオランダのヒュゲン著の技術書「ロイク国立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」
の翻訳を伊東玄朴に命じて大島高任達と完成させた。
 
これが、日本が産業革命を行う第一歩であった。
今まで古来の「たたら製鉄」でしか鉄をつくったことのない日本が、原理しか記載していない
ヨーロッパの技術書を解読しながら、反射炉づくりを開始した。
 

第6話では、苦難の反射炉づくりを紹介します

 

 

 


 

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世界遺産物語 第6話 / 反射炉で始まった日本の鉄づくり

 

なぜ反射炉を造ったのか
 

ヨーロッパに対し300年も遅れていた日本の鉄づくりの技術では大型の洋式大砲を
製造することは困難であったが、外国の技術者を外国の技術者を招聘することの
叶わない時代でもあった。

 

                  
ヨーロッパの反射炉       ヒュゲンの技術書

 

そこで、佐賀藩の鍋島直正はオランダのヒュゲン著の技術書「ロイク国立製鉄大砲鋳造所に
おける鋳造法」
の翻訳を伊東玄朴に命じて大島高任達と完成させた。
鋳造の原理しか記載していない技術書を解読しながら反射炉の建設が始まる。
 
各地で建設された反射炉

1853年に佐賀藩が、江戸で反射炉試作を行った江川英龍の協力を得ながら築地反射炉
完成させ、日本で初めて銑鉄性の大砲を製造した。

 

  
   萩反射炉          韮山反射炉

 
同年に島原藩も現在の大分県宇佐に佐田反射炉を完成させ海防の強化を図った。
水戸藩では徳川斉昭が南部藩士の大島高任を招き、1854年に那珂湊反射炉を完成させた。
更に、1857年には那珂湊2号反射炉も完成させた。
萩藩は佐賀藩の技術を導入し、1854年に試験用の萩反射炉を建設するも、実用化はされなかった。
この反射炉は現存し、世界遺産に登録された。
薩摩藩も佐賀藩の協力を得て、1857年に集成館反射炉を完成させ、日本初の近代的な方法で
大量生産を行った。
江戸幕府は、江川英龍の指導の基で、当初下田に建設する予定であったが、ペリー艦隊の水兵
の侵入事件が起こり、1857年に韮山反射炉を完成させた。これも現存し世界遺産に登録された。
また、鳥取藩六尾反射炉を1857年に完成させた。
更に、江戸幕府は東京水道橋に滝野川反射炉を1864年に完成させる。
 
日本各地の反射炉で造られた大砲は、幕末には外国勢力への牽制や明治維新に入って
1868年に勃発した戊辰戦争で用いられたと言われている。
 
反射炉建設の背景と問題点
日本の反射炉の基となった「ロイク国立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」は、
1783年にイギリスのH.コートが開発したパドル法の反射炉であった。
反射炉で鉄(鋼)をつくるには一回の作業に10時間以上を要し、得られる鋼は少ないため
大量生産に向いていなかった。
そのためヨーロッパでは次第に反射炉法が廃れ、連続的に大量生産できる高炉法に移行し、
高炉の技術が急速に発達していった。
しかし当時の日本では鉄づくりの技術も遅れていたため、古来の「たたら製鉄」みたいに砂鉄を
原料として、反射炉を使う方法を採用し、上述のように各地で多くの沢山建設された。
 
反射炉法から高炉法への移行

反射炉の欠点をいち早く見抜き、最初から高炉法の重要性に着目したのが、

南部藩の大島高任であった。

 

  
   大島高任       釜石の洋式高炉跡

 

最初大島は水戸藩徳川斉昭の依頼で、1854年に那珂湊反射炉を建設するが、
安定して鉄を大量に生産するためには高炉が必要だと、釜石において日本で最初の
洋式高炉建設に取り掛かる。
 

第7話は、舞台を釜石に移し、高炉による鉄づくりを紹介します。

 
 
 

世界遺産物語 第7話 / 釜石で始まった洋式高炉による鉄づくり

 
日本初の高炉法への試み

1854年に薩摩藩が集成館で日本で最初に高炉を建設したが、原料の制約などから

本格的な生産体制は構築できなかった。 


  
  薩摩藩 集成館       北海道 古武井   

 

また、1855年には、函館奉公傘下の北海道古武井でも建設されるが、
砂鉄を原料とした高炉だったので成功しなかった。

 
近代製鉄の父・大島高任の挑戦
南部藩医を父とした、大島高任は1826年に盛岡で生まれた。
藩命を受けて1846年から長崎に留学、蘭学を学び、オランダ語の文献を通して
「西洋の兵法、砲術、鉱山、精錬に関する方法」を修めた。
「ロイク国立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」の翻訳にも携わり、
更に自ら「西洋鉄鋼鋳造篇」も 翻訳し、ヨーロッパの製鉄技術に接した。
 
  
  大島高任      オランダ語の技術書
 
そして、全国各地で反射炉が建設される中、いち早く高炉の必要性に着目していた。
自信も、水戸藩の反射炉建設に際して、安定した大砲を製造するためには、
釜石鉱山の鉄鉱石を原料した洋式高炉法で均質が銑鉄を使用することが重要
であることを提言した。
 
釜石での日本初の洋式高炉
水戸藩の反射炉が完成した後、休暇をもらい、製鉄に有利な立地条件の南部藩に
帰国し高炉建設に取り組む。

高炉の経験のない大島高任は、自ら翻訳した蘭書に理論を基に技術化を図り、

大橋第1高炉を1857年3月に着工して、釜石の鉄鉱石を使って同年12月1日

火入れして初出銑を行った。

 

    
   洋式高炉の図面       橋野高炉跡

 

高炉の形状は、高さ6mx縦横4.2mの花崗岩積に上に

炉床径0,7mx炉腹径1.7mx高さ8.4mの円柱徳利状。

これを記念して12月1日が「鉄の記念日」と定められた。
当初から順調に操業が行われたのでなく、原料の事前処理や設備の改善、
製造法の幾多の試行錯誤が行われ、基本技術が確立した。
1858には南部藩直轄の橋野仮高炉が建設された。1862年には高炉2基を増設した。
 
釜石の有利な立地条件】 
①良質な鉄鉱石が近くで採掘できる
②製炭原料となる森林が確保できる
③高炉建設に必要な花崗岩や石材採取に最適
④送風装置の水車運転の動力源となる水流に近い
⑤東北地方に古来製鉄法に従事する技術者や労働者が多い

⑥交通条件や村落の産業基盤が整っている

釜石での洋式高炉による鉄づくりに成功したため、次は製鉄所建設に繋がる。

第8話では、八幡につながる釜石製鉄所の物語を紹介します。

 

 

 
 

世界遺産物語 第8話 / 釜石から八幡へ

 
官営製鉄所建設の経緯
1871年から2年間、岩倉具視視察団が欧州を視察から強い刺激を受けて帰国し、
福沢諭吉も「文明論の概略」の中で「富国の基本は鉄」と提唱し、イギリス人技師を雇用し
技術面の指導を受けることになった。

  
       岩倉具視視察団      大島高任
 
日本初の洋式高炉をつくった大島高任』1974年に製鉄所建設案を発議し、
昼夜の作業に最も安全な地形を選び、小形高炉を5基、鉱石の運搬には軌道馬車を
採用することを提案した。
これに対してイギリス人技師は高能率の大型高炉2基と鉱石を運搬する蒸気機関車による
近代鉄道を使用して銑鉄と錬鉄を生産し、それを圧延する工場の建設を提案した。
お互いに真っ向から議論したが、最終的にはイギリス人技師の案が認められて、
イギリス式で官営釜石製鉄所を建設することが決定された。
その後、大島高任は釜石を去り、秋田県小坂鉱山へ転勤となった。
 
官営釜石製鉄所創業
官営釜石製鉄所は、当時世界最新鋭のイギリス式高炉2基を始め、全ての設備を
イギリスから輸入、新たに招いた外国人技師の指導の基で建設され、
1880年に操業を開始した。

しかし、木炭の不足や小川製炭場の火災などによってわずか90間で操業を中止した。

 


  官営釜石製鐵所

 

1882年に操業を再開するも、木炭の品質問題等で操業不能となり、
196日間で操業を休止する。
失敗の大きな要因は、外国人技師を始めとした技術者の経験不足と木炭の供給不足、
更にコークス用石炭性状に関する技術上の問題があげられる。
また、当時の鉄の民間需要が少なく生産コストが高くなり経済収支が成り立た
なかったことも要因である。そして翌年の1883年に官営釜石製鉄所が廃止となった。
 
釜石鉱山田中製鉄所 (後の釜石製鐵所)
1884年に田中長兵衛が製鉄所の一部設備の払下げを受け、製鉄事業への挑戦が始まる。
そして、日本人自らの手で試行錯誤を繰り返しながら188610月16日に
49回目の挑戦で、製鉄所として初めての出銑に成功した。

この10月16日釜石製鉄所の創立記念日となっている。

 

  
 田中製鉄所      野呂景義

 
1887年には全ての製鉄所設備の払下げを受け、釜石鉱山田中製鉄所が設立した。
そして田中は、大型高炉の欠陥を指摘した『野呂景義』を顧問として迎え、
大型高炉に技術的改良を加え、コークス炉を整備して、1894年に日本で初めて
コークス炉を使った製鉄法に成功した。そして、現在の釜石製鉄所へとつながる。
 
釜石から八幡へ
『大島高任』が、自ら翻訳した西欧の技術書を基に、釜石に洋式高炉を建設し、
1857年に日本で初めての出銑に成功した。
その後、イギリスの技術を全面的に導入し、1880年に官営釜石製鉄所が操業したが、
種々のトラブルにより1883年に官営釜石製鐵所は廃止された。

この失敗の要因『万事を外国人技師に一任し、そしてその技師は我国の資源
その他特有事情に対する科学的研究を欠き、自国技術を万能的に過大評価していた』

『日本鉄鋼史』には記している。

 

  

大島高任が釜石に灯した技術を受継ぎ、『野呂景義』はコークスによる
近代製鉄技術を確立して八幡につなぎ、日本の鉄鋼技術の自立の道を開いた。

 

第9話の舞台は八幡へ移ります。

 

 


 

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世界遺産物語 第9話 / 官営製鐵所建設の背景 その1

 
製鉄所建設の歴史的背景
伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任した1885年(明治18年)頃の鋼材の民間需要は少なく、
我国の銑鉄の需要の60%はイギリス銑やインド銑に依存しており、鋼材に至っては民間需要の
全量を欧米から輸入していた。
しかし、鉄鋼の国内の需給率の向上は重工業の発展や軍機製造面必要不可欠であり、
一貫製鉄所建設が求められるようになった。
一方で、既に清国漢陽製鉄所が、自国の鉄鉱石を使い、ベルギー人の指導の基で稼働を始め、
日本へ軌条の売込及び九州の石炭の買い付けに訪れた。
これが、日本の製鉄所建設に拍車がかかり、1891年(明治24年)に製鉄所建設構想が始まった。
 
なぜ釜石製鉄所では駄目だったのか
1880年(明治13年)に操業を開始した官営釜石製鉄所は、イギリス式高炉2基を始め、
全ての設備をイギリスから輸入、外国人技師の指導の基で建設された。
高炉で銑鉄をつくり、バトル炉(反射炉)で錬鉄を製造して、錬鉄圧延製品をつくる
製鉄所だった。
錬鉄は鋼に比べて、強度が低く、品質の均質性にも欠き、生産効率も低かった。
いわば、時代遅れのプロセスの設備をイギリスが持ち込んだともいえる。

そこで、高強度、高品質の製品づくりが求められ、鋼を大量生産できる、製鋼設備を備えた
新しい一貫製鉄所の建設が必要であった。

 

参考)
当時の釜石製鐵所の鉄の年間の生産量は、1890年4,000トン1891年は9,000トンであったが、
ちなみに若戸大橋の鉄の使用料28,000トンから比べても、非常に量的に少なかった。

 

 


 

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