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Kyushu Travel Guide

世界遺産物語 第2話 / 種子島に鉄砲伝来

世界遺産物語 種子島に鉄砲伝来

●日本に大きな変化が起きる
1543年にポルトガル人が、種子島に来て鉄砲を伝えられ、それを機に
外来の文化が入り始め、日本の中に変化が起き始める。

   

そして、1549年にはフランシスコ ザビエルが薩摩に来て、それから平戸、
山口などを訪問しキリスト教を伝えた。
1571年にはポルトガル船の寄港地として長崎が開港され、長崎の統治を
イエズス会に託す。

豊臣秀吉は外国に日本が占領されるのではないかと、1587年のバテレン追放令を出し、キリスト教と南蛮貿易を禁止する。

そして1588年には、豊臣秀吉が幕府の長崎を直轄地とする。
ポルトガル人に侵略を阻止するための手段として、キリスト教を封じるため、
159725日に26人のキリスト教信者が長崎の西坂の丘で磔によって処刑される。
後にカトリック教会に
「日本26聖人」をして聖人に加えられた。

そして、1598に豊臣秀吉が生涯の幕を閉じ、時代は変わって行く。

鉄砲伝来後、日本の鉄づくりが急速に発展する。

 


ー世界遺産物語の目次ー

第一篇 
古来の鉄づくりから官営八幡製鐵所創業までの歩み
・第1話 日本最古の鉄器は糸島で出土
・第2話  種子島に鉄砲伝来
・第3話 江戸幕府の政権安定策と鉄づくり
・第4話 幕末の日本に変化が起きる
・第5話 日本の産業革命の始まり 
・第6話 反射炉で始まった日本の鉄づくり
・第7話 釜石で始まった洋式高炉による鉄づくり

・第8話 釜石から八幡へ
・第9話 官営製鐵所建設の背景 その1 
・第10話 
官営製鐵所建設の背景 その2
・第11話 野呂景義による幻の製鉄所建設計画 
・第12話 
営製鐵所建設地が八幡に決定
・第13話 わずか4年で田畑に製鉄所をつくった偉業
 
第二編 八幡製鐵所創業から終戦までの歩み
・第 1話 八幡製鐵所の苦難の船出
・第 2話 日露戦争が八幡製鐵所拡張に拍車をかける
・第 3話 日露戦争後の反動不況と鉄鋼需要の伸び
・第 4話 第一次世界大戦後に鉄鋼需要が大幅に伸びる
・第 5話 河内貯水池物語
・第 6話 くろがね線物語
・第 7話 高見神社物語
・第 8話 満州事変と洞岡地区の拡張
・第 9話 戦争時代の終焉

世界遺産物語 第1話 / 日本最古の鉄器は糸島で出土

世界遺産物語 第1話 日本最古の鉄器は糸島市二丈町で発見 

●明治日本の産業革命遺産
201575日に世界文化遺産に登録された、製鉄・製鋼、造船及び石炭産業の
遺産群で、8県(岩手県、静岡県、山口県、福岡県、佐賀県、
熊本県、長崎県、
鹿児島県)にまたがる23の施設で構成されている。

   

登録された目的は、施設そのもの(有形)の価値が認められたのではない。
世界中の誰もが成しえなかったことを、ドラスティックな産業革命とその後の
急速な産業発展(無形の事柄)が高く評価されたことによる。

【世界遺産物語とは】
ヨーロッパに比べて重工業が非常に遅れていた日本が、どのようにして
ヨーヨッパから技術を学び、産業革命を行い、急速な産業発展がなされたのかを
時代を遡ってその物語を紹介します。

●物語の始まり
鉄は稲作とともに伝わったと言われている。

日本で最も古い鉄器は、縄文時代(紀元前3~4世紀)と言われていれ、
福岡県糸島市二丈町で出土した。

  


弥生時代
に入ると、稲作も盛んになり、斧や鍬など農機具が鉄で
造られるようになる。
その方法は「たたら製鉄」によるもので、砂鉄を用い、木炭の燃焼熱によって
砂鉄を還元し、鉄をつくる方法。
 
古代のたたら製鉄は、北部九州、中国地方や東北など始めとする
日本各地で行われた。
11世紀以降、砂鉄の豊富な中国地方で大型炉による鉄づくりが始まった。
15世紀の室町時代後半に入ると刀の需要が急速に増え、各地で刀鍛冶が
発達して行く。
 
1543に、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えた。
その一年後の1544年には、種子島の鍛冶工・八坂清定が日本初の鉄砲をつくった
その方法は、鍛造で鉄の板をつくり、それを丸い棒に巻き付け、
溶着させる。ねじのない時代に鉄製の栓をつくり、それを溶着させて
片方を塞ぎ、苦心の末鉄砲を完成させた。
恐るべき創造力と職人業であり、これが今日のものづくり日本の原点ともいえる。
 
その後、刀鍛冶の盛んな地域である、和泉・堺近江・国友近江・日野
備前・長船、そして城下町鹿児島仙台などで鉄砲が造られるようになる。

そして、豊臣秀吉の時代に入って、刀や鉄砲づくりの技術は更に進んでいく。
 


ー世界遺産物語の目次ー

第一篇 
古来の鉄づくりから官営八幡製鐵所創業までの歩み
・第1話 日本最古の鉄器は糸島で出土
・第2話  種子島に鉄砲伝来
・第3話 江戸幕府の政権安定策と鉄づくり
・第4話 幕末の日本に変化が起きる
・第5話 日本の産業革命の始まり 
・第6話 反射炉で始まった日本の鉄づくり
・第7話 釜石で始まった洋式高炉による鉄づくり

・第8話 釜石から八幡へ
・第9話 官営製鐵所建設の背景 その1 
・第10話 
官営製鐵所建設の背景 その2
・第11話 野呂景義による幻の製鉄所建設計画 
・第12話 
営製鐵所建設地が八幡に決定
・第13話 わずか4年で田畑に製鉄所をつくった偉業
 
第二編 八幡製鐵所創業から終戦までの歩み
・第 1話 八幡製鐵所の苦難の船出
・第 2話 日露戦争が八幡製鐵所拡張に拍車をかける
・第 3話 日露戦争後の反動不況と鉄鋼需要の伸び
・第 4話 第一次世界大戦後に鉄鋼需要が大幅に伸びる
・第 5話 河内貯水池物語
・第 6話 くろがね線物語
・第 7話 高見神社物語
・第 8話 満州事変と洞岡地区の拡張
・第 9話 戦争時代の終焉

河内貯水池にも春が来た。

河内にも春が訪れました。
 桜の季節の次は深緑です。

この地にユネスコの審査員が訪れ、明治日本の産業革命遺産の世界遺産登録の
大きな決め手となった。

 

河内貯水池は、八幡製鐵所の第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として
1919年(大正8年)に竣工し、8年の歳月をかけて、延90万人の人々の手で1927年(昭和2
年)に完成した。
 

その総指揮者が、土木技師の沼田尚徳当時は東洋最大級のダムで、
「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と情熱を
注いだ大事業。

 
    大蔵川の上流を堰き止め、700万m3の貯水池を造った

 
    見事に自然と調和した河内貯水池

 
    日本で、ここにしかないレンズ型の橋

9月25日 原城跡が世界遺産候補に決定

私が生れ育った、島原の原城跡が「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として
2018年の世界遺産候補といて決まりました。
   

原城は1496年に有馬氏によって築上、一国一城令後、島原城を築上したため1616年に廃城。
そして1637年の起きた、キリスト教の再復興などを目的とした、日本の歴史上最大規模の
一揆である「島原の乱」の舞台となった場所である。
  

1泊2日の島原半島の「世界遺産候補」遺跡巡りの旅も行っています。


「日本のキリスト教の歩みと島原の乱」について、下記に英語と日本語で
紹介します。

History of Japan’s Christianity and Shimabara Rebellion
Initially, most Japanese leaders welcomed arriving Europeans.
For daimyo during the period of Warring Stages, the European provided access to 
important information. 
The Europeans had useful knowledge about geography, 
map making, shipbuilding and navigation.
They had muskets and other military technology.
They brought trade in goods that were unavailable in Japan, Some daimyo became 
interested in Christianity partly because of their interest in trade with those Europeans.
 
Japan’s unifiers gradually became suspicious of those who came as Christian 
missionaries. Christianity preached the need for excusive loyalty to God.
That meant obedience to a foreign god instead of a Japanese daimyo.
As early as 1587, Toyotomi Hideyoshi issued a decree saying that all Jesuits had 
to leave the country immediately.
He did not actively enforce the decree but it was a sign that attitudes were changing.
In 1614, Tokugawa Ieyasu again ordered all missionaries to leave the country.
 
Anti-Christin attitudes reach a peak in the 1630s. Several Kyushu daimyo and the 
people of their domains became Christians.
Discontented ronin joined a peasant uprising in Kyushu under Amakusa Shiro.
The Shimabara Rebellion was at least partly caused by poverty caused by heavy 
taxation. 
The Shogunate was not going to allow a challenge to its authority for 
any reason.
A huge army was sent to suppress the rebellion. The rebels were put under siege 
at Hara Castle on the Shimabara Peninsula.
The castle fell and the Shogunate forces slaughtered some 35,000 men, women 
and children in the castle.
 
This turned out to be the last major fighting involving the Tokugawa armies until 
two centuries later. 
 
日本のキリスト教の歩みと島原の乱
当初、日本の君主たちの大部分が日本にやって来るヨーロッパ人を歓迎していた。
戦国時代の大名たちのために、ヨーロッパ人は重要な情報を得る機会を提供していた。
ヨーロッパ人は地理や地図の作成、造船や航海に関する有益な情報を持っていた。
彼らは火縄銃などの軍事技術を持っていた。彼らは日本で手に入らないような品物の
交易をもたらした。
大名の中には、一つにはこうしたヨーロッパ人との貿易に興味があったから、
キリスト教に興味を持つものも現れた。
 
日本の統一者たちは、次第にキリスト教の宣教師としてやって来る者たちに疑いの目を向けるようになった。キリスト教は神のみに忠誠心をもつ必要性を説いた、それはとりもなおさず、日本の大名に対してではなく、異国の神に従うことを意味していた。
1587年の時点で既に豊臣秀吉は、すべてのイエズス会士は直ちに日本からでるように命じた布告を発している。
彼は積極的にその布告を強制することはしなかったが、それは為政者の姿勢が変わりつつある兆候であった。

1614年、徳川家康は秀吉に続いて全ての宣教師に国外退去を命じた。

キリスト教弾圧の姿勢は1630年代にピークに達した。幾人かの九州の大名とその領民たちがキリスト教徒となった。 不満を抱いた浪人が、九州で天草四朗率いる農民一揆に合流した。
島原の乱は少なくとも一つの原因として、重税によって引き起こされた貧困が引き起こしたものであった。幕府はいかなる理由があろうとも、その権力に逆らうことは許そうとしなかった。
その謀反を鎮圧するために大軍が送られ、反乱者たちは島原半島の原城に立てこもったところを包囲された。
城は陥落し、幕府の軍隊は老若男女を問わず城内にいた約3万7千人を皆殺しにした。
この島原の乱を最後として、2世紀後の幕末まで、徳川幕府は大きな騒乱にかかわることはなくなった。

世界遺産の三池炭鉱の遺産群

世界遺産・宮原坑と万田抗を見学して痛感したこと

ガイドブックやボランティアガイドさんの案内では、日本の産業近代化を支えた遺産群、
それが今でも残っています、素晴らしいでしょう 。。。。

   


でも、ここでどんな作業をされていたのだろうと考えながら現場を見て回ると、
言葉が出ないぐらい、凄まじい作業の様子が頭に浮かんできました。
炭鉱は今では考えられない過酷な肉体労働、いつ大事故が起きてもおかしくない、
危険を伴う作業。
   
無事に地上に帰って来ることだけを考えて朝坑内に入って厳しい作業につき、
そして作業が終わって地上に出たときの皆さんの安堵の笑顔、これが毎日の繰り返し。
今こんな作業をやって下さいと言っても、誰もやらないぐらい厳しい労働環境で、
多くの人達が頑張ったから今日の豊かな社会があると肌で感じました。
 
   

ここの遺産群は、炭鉱が残っていたから世界遺産に登録されたのではない、
ここで働いた作業者に人達、そして技術者、管理者の人達が苦労しながら、
日本の近代化に繋げて行ったのかを紹介するために世界遺産に登録されたのだと思う。
 
今後、このことをしっかり後世に伝えていかなければならないと痛感しました。

佐賀の反射炉 / 日本の産業革命の始まり

日本の産業革命の始まりは佐賀藩から
江戸時代、鎖国政策で海外との交易をオランダと中国に限定していたが、
次第に外国船が来航し、日本との
交易を求めてきたが、幕府はそれを断り続けた。

しかし、植民地化の危機が迫って来たため、日本各地で国防の機運が高まった。



   鍋島直正

最初に行動を起こしたのが、長崎の警備を担当する佐賀藩鍋島直正。
1847年に幕府に海防の必要性を献策するも、その提案は却下された。
そのため、佐賀藩は独自で動いた。
それが大砲をつくるための反射炉をつくることであった。
しかしヨーロッパに対して300年も技術が遅れている日本が、外国の技術者を
招聘することの叶わない時代でもあった。


  技術書

そこで、鍋島直正はオランダのヒュゲン著の技術書
「ロイク国立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」の翻訳を
伊東玄朴に命じて大島高任達と完成させた。

その技術書を基に、1850年に佐賀の築地に、藩独自で洋式反射炉を築造し、
築地大砲鋳造所を設け、長崎台場の防衛用大砲を製造した。

 
                築地反射炉                                       大 砲 
1853年、その威力を幕府に認められ、大砲の鋳造依頼があったので。多布施に
新たな反射炉を建設し、公儀石火矢鋳立所を設置し、幕府向けの大砲を製造した。

佐賀藩で製造した大砲はあわせて271門に及び、日本の産業近代化の歴史が
この地を起点に始まった。

大連航路上屋 & 世界遺産

大連航路上屋
私の母も祖父母も、きっとここから満州に旅立った
そして小さいころ、祖母から戦争のことを沢山聞かされた。
満州から帰った時は、ここではなかった。
   
関門海峡に沢山の機雷が落とされたから、ここには帰れなかった。
今度は、今は亡き祖母に代わって、戦争のことを伝えることも私の役目ではないかと、
この地を訪れて思いました。
 
今展開している世界遺産/明治日本の産業革命遺産の啓蒙活動にも、
戦争の歴史は伝えるべき重要な事柄だと思います。
 
世界遺産
なぜ、世界遺産/明治日本の産業革命遺産で戦争を伝えなければならないのか。
この遺産群の世界遺産登録の訳は、遺産群そのものの価値が評価されたのではなくて、
下記の出来事を世界中に人々に伝えることです。
 ①幕末から明治の初期にドラスティックな産業革命
 ②世界の誰も成しえなかった現在までの、急速な産業発展
  
戦争と共に発達してきた産業、戦後復興を原動力につくり上げた世界一の工業立国日本。
その近代化の中心舞台が北九州であり、戦争の経験された皆様のことを含めて、
北九州で展開された「世界遺産物語」を紹介していきます。

世界遺産物語 直方駅

日本の産業発展のために頑張ってきた直方駅

1891年に筑豊興業鉄道の若松~直方が開業、1899年には本格的に石炭輸送拠点駅とするため、
拡張が開始された。
  

そして、日本の産業ためになくてはならない筑豊からの石炭運び続けた。
  

第二次世界大戦後はエネルギー革命によって石炭の出荷量が減少するようになった。
そして1958年からは筑豊地区からの石炭輸送が減少に転じ、直方駅の作業も縮小していき、
1984年に貨物輸送駅としての幕を閉じる。

沼田尚徳 / 製鉄発展の礎を築いた男

製鉄所の発展の礎を築いた男 沼田尚徳の偉業
 
当時建設中の官営八幡製鐵所に入社し、30年余にわたり土木技師として辣腕を振るい、
製鉄所のみならず北九州工業地帯の基盤となる土木工事を次々と成功に導いた。
中でも工業用水と水道用水供給の為に北九州郊外に建設した河内ダムは
当時東洋最大級の規模を誇り、日本を代表する近代化産業遺産のひとつとして世に知られている。
   
 
その沼田尚徳の功績を紹介します。
 


水戸藩の沼田家
1875年(明治8年)、水戸藩に代々仕えた武家の家系で生まれた。
沼田家は尊王攘夷派/天狗党結成の発起人の一人である伯父沼田順次郎、
藩幹部の筆頭書記官で祖父沼田久次郎を持ち、そして祖父とともに「大発勢」と呼ばれる
討伐隊に加わり、明治維新後は教育者の道を歩んだ沼田順三郎の長男として生まれた。
 


青年時代
1894年(明治24年)旧制第一高等中学に入学、そして新たに新設された京都帝国大学に
1897年(明治30年)に入学し土木技術や鉄筋コンクリート技術学び、更に水道施設や
琵琶湖疏水などの技術にも関心を持っていたと言われている。
 


官営八幡製鐵所に入社
1900年(明治33年)に京都帝国大学を第一回生として卒業、当時建設中だった
官営八幡製鐵所に土木技師として入社した。
    
1901
年(明治34年)に東田第一高炉に火が入り、日本で初めての銑鋼一貫製鐵所が
操業を開始する。
 
1902年(明治35年)に技師を命じられ、1911年(明治44年)に修築科長となり、
1915
年(大正4年)にはアメリカとイギリスに出張した。
  
手がけた工事は繋船壁築造工事に始まり、40万坪の洞岡埋築、くろがね線建設そして
河内貯水池や養福寺貯水池建設といずれも当時の日本で最大級の土木工事ばかりである。
 


最初の挫折
1916年(大正5年)に竣工した下大谷貯水池が、わずか1ヶ月余りの後に豪雨で脆くも決壊し、
製鉄所や付近の住宅地域に多大な被害を及ぼし住民
1名の尊い命を奪う大惨事を引き起こした。
事故の原因は堰堤の強度不足であった。事故により尊い命が犠牲になったことが大きな
心の痛手となり、その後この教訓から、建設現場を自らの足で歩き自分の目で確認する
現場第一主義の仕事スタイルを育んでゆく。
 


渾身の大事業、河内貯水池
 「土木は悠久の記念碑」
製鉄所第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919年(大正8年)に竣工し、
8年の歳月をかけて1927年(昭和2年)に完成した。
当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく
英知と情熱を注いていく。
 
かつてに河内は製鐵所から南10㎞ほど谷あいの31戸が暮らす自然豊かで平穏な農村、また都市の児童の
山村留学も受入れている教育先進地域。
   
その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。                        
ダムには当時最新の土木技術をふんだんに用い、一方で現場の石材や自社鋼材を用いた独自の
設計で土木構造物への新しい挑戦をした。更に環境にも優しい工法を積極的に採用し、
将来市民の憩いの場所をすべく、橋から取水塔、管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。

このことは、先祖代々の土地と故郷の美しい自然を提供し、建設に協力を惜しまぬ村人へ何としても
恩返しでもあった。
安全管理でも最新の配慮がなされ、当時の西日本最大級の難工事にも関わらず8年の建設期間中1名の
死者も出さなかった。
80年経過した今でも給水の本来の機能を果たしながら、憩いの場として多くの人達の親閉まれている。

独特の英知を凝らして作った堰堤 ヨーロッパの古城をイメージ当時コンクリートは高価の為、
粗石を混ぜて使用、銅板を内部に入れた伸縮継手で亀裂を防止した。  

工事段階での型枠代わりに石壁をつくり、ダム完成の耐久性を確保。     
使用した切石は12万個、加工時発生した小さな石も、付帯建築物に張付けて美観に
優れたダムを
作り上げた。
  

河内貯水池にかかる橋
自然との調和をコンセプトにし、当時の技術を結晶し、創意工夫して設計で、
それぞれの場所の景観に合わせて作った橋をつくっている。
  
その代表的なものが、日本で唯一残るレンティキュラー・トラス橋(レンズ型のトラス橋)の南河内橋である。 
この形と色が実に自然と調和し、鉄の街八幡のシンボルとなっている。

悲しみを乗り越えて 
建設中、沼田尚徳は現場では明るく振る舞っていたが、数々の悲しみを心に押し潜めていた。
山の神はこの大事業と引き換えにかけがえのない家族を貢ように強いていたようでもあった。
父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが妻泰子。
しかし、最愛の妻もダムの完成を待たずして猩紅熱でこの世を去ってしまった。    
その後母も亡くなり、家族をダムが人柱として飲み込んでしまったような悲劇であった。
  
河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、
妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。
 


企業利益より社会貢献 沼田尚徳の美学
実直でロマンティストの沼田尚徳は、営利栄達にはあまり縁がなかった。これほどの大事業を成功させ、
製鉄所と八幡市の発展の礎を築いき、勲三等瑞宝章まで授与され、製鉄所では土木部長でありながら
製鉄所長官に次ぐ処遇を受けていた。
にも関わらず、1930年(昭和5年)に55歳の誕生日を待たずして静かに勇退した。
その後、八幡、戸畑、若松市の委託として三市の上水道整備を指導し多大な貢献をし、
日本最大の軍事工場であった小倉陸軍造兵廠の土木関連業務も手がけたが、
1934年(昭和9年)に全ての職を辞し田舎に陰棲した。
 


遠 想
河内貯水池の堰堤を見下ろす小高い場所にヨーロッパの古城を模したと言われる管理事務所が建っている。
その出入り口に沼田尚徳の「遠想」の言葉を刻み込んだ石の掲額が残されている。
ここから河内貯水池を静かに見下ろしながら、遠く未来の想いを馳せているに違いない。
その未来の姿はどのようなものであったのであろうか。それは百年経った今でも人々の
潤し続ける河内貯水池の姿、そして彼が残した礎の上にいつまでも成長を続ける
日本の未来だったのではなかろうか。
 


本投稿は、西日本ペットボトルリサイクルの千々木亨氏の論文 鉄都に生きる男たちから
引用させてもらいました。

筑豊御三家

日本の産業近代化の基礎をつくった、炭鉱事業の筑豊御三家

麻生太吉、貝島太助、安川敬一郎。
 

●麻生太吉
飯塚の村長のような立場で、採炭事業で成功し石炭鉱業連合会会長、九州水力電気社長、衆議院議員、貴族院多額納税者議員等を歴任した。

 
●貝島太助
直方の貧農の出身で炭坑夫を経て成功した。政治家井上馨を顧問格として迎え、その関係で日産コンツェルン(現日産自動車)の創始者、鮎川義介と縁戚関係にあった。
 
●安川敬一郎
芦屋で石炭の販売、流通部門に関わり経済基盤を確立する。八幡製鉄を誘致にも大きな役割を果す。明治紡績、安川電機、九州製鋼(のち八幡製鐵所が買収)、黒崎窯業を設立する。また、技術者育成のために明治専門学校(現九州工業大学)を創設する。