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Kyushu Travel Guide

先人たちの功績

                                 北九州の産業観光          
先人たちの功績


北九州の産業を創り上げ、繁栄に導いた先人たちをご紹介します。

1 鮎川 義介  Aikawa Yoshisuke   戸畑の発展に寄与し、日産コンツェルン形成
1880年、山口市で生まれ。長州藩士と、明治の元勲・井上馨の姪の長男。東京帝国大学卒業後、
芝浦製作所(後の東芝)に入社したが「日本の機械技術に独自のものはない」と渡米。鋳物会社で
当時の最新の可鍛鋳鉄製造技術を習得。帰国後1910年、29歳で北九州市戸畑区に戸畑鋳物㈱
(現・日立金属㈱)設立。資本を大衆から集めて日産自動車を始めとした日産コンツェルンを形成、
『日本資本主義の父』。戸畑漁港発展の先駆けとなる戸畑冷蔵を設立、その後の共同漁業
(後の日本水産)の下関からの移転に結びつく。

2 浅野 総一郎  Asano Soichiro   一代で関連企業50社以上の浅野財閥を築く
1848年、富山県氷見市生まれ。村医者の息子。24歳で上京して一杯一銭の水売り商から始め、
多量のコークスをセメント工場へ売り込んだことが契機となり、後にセメント事業を興し、海運業、
石炭業、港湾事業など次々と新しい事業を拡大。『明治のセメント王』と言われ、一代で関連企業
50社以上の巨大な浅野財閥を築いた。1893年浅野セメント㈱門司分工場を設立、1918年東京製鉄
㈱小倉製鉄所の経営を引受け、浅野製鋼所㈱を設立(後の住友金属工業㈱小倉製鉄所)、小倉築港
事業に関わり、地域の経済発展にも大きく貢献した。

3 安川 敬一郎  Yasukawa Keiichiro   世界のYASKAWAを一代で作り上げた実業家
1849年、福岡城下生まれ。黒田藩士の足軽で儒学者・徳永省易の四男。16歳で安川岡右衛門に
婿入り、18歳で四女の峰と結婚。藩校修猷館に学び、京都に留学。23歳で慶応義塾に入学。
帰郷後、炭坑経営に着手。好況・不況の波の中で、筑豊炭田御三家(安川、麻生、貝島)として、
政財界でも活躍。明治初期における日本工業近代化を支えた「地方の活力」の一つ、「地方財閥の
雄 安川・松本家」を一代で作った実業家。1908年明治専門学校を自己資金で開校、教育にも力を
注ぎ、現在の九州工業大学につながった。

4 松本 健次郎  Matsumoto Kenjiro   父・敬一郎とともに北九州の発展に寄与
1870年、福岡市生まれ。安川敬一郎の次男。1890年、伯父・松本潜の養子となる。2年間のアメリカ
に留学後、父・敬一郎が経営する炭坑業(のちの明治鉱業(株))に入り、父の協力者として事業を推進。
自ら貿易や電機、製鋼、窯業などの事業を興した。1918年、黒崎窯業㈱(現在の黒崎播磨㈱)設立。
明治鉱業(株)、安川電機(株)、九州製鋼(株)などに関わり、北九州の地域発展・産業振興に尽力。
1907年、父・敬一郎とともに私財を投じ、明治専門学校(現在の国立九州工業大学)設立、次代の
技術者教育・育成にも力を注いだ。


5 金子 直吉  Kaneko Naokichi   鋭い先見性を持ち、あらゆる新規事業を生み出した
1866年、土佐生まれ。土佐藩領内商家の子。丁稚奉公先で法律、経済、工学、理学などを学んだ後、
鈴木商店へ。当主が若くして亡くなった後、番頭としてその再建を担う。「これからの日本は工業である」
という、時代の先見性から製鉄、人造絹糸、酒造、製紙、交通、電力などあらゆる新規事業を生み
出す。1904年鈴木商店が門司に大里製糖所を建設し食品工業の展開を進めた。1911年大里製糖所
(直営)、日本製糖㈱大里工場、帝国麦酒㈱、大日本酒類醸造㈱などの食品工業群や鉄鋼関連企業を
設立し、北九州地区産業の発展に貢献。

6 沼田 尚徳  Numata Hisanori   当時、東洋最大級の河内貯水池建設最大の功労者
1875年、水戸市生まれ。水戸藩に代々仕えた武家の家系。1900年京都帝国大学を第一回生として
卒業、当時建設中だった官営八幡製鐵所に技手として任官。製鐵所のみならず北九州工業地帯の
基盤となる土木業を成功に導く。中でも工業用水と水道用水供給の為に北九州郊外に建設した河内
貯水池は当時東洋最大級の規模を誇り、日本を代表する近代化産業遺産の一つ。河内は当時最新の
土木技術を用い、市民公園としての機能を付与することにも腐心、デザインにもこだわっている。
安全管理でも細心の配慮をし、当時西日本最大級の難工事にも関わらず、8年の建設期間中1名の
死亡者も出しておらず、80年経った現在でも漏水やひびなども認められていない。

7 田中 熊吉  Tanaka Kumakichi   八幡製鉄所と共に生きた“高炉の神様” 
1873年、佐賀県三養基郡生まれ。農家の三男。1901年、官営八幡製鐵所の職工となる。1912年
技術研修でドイツに派遣、ドイツ語を習得し貪欲に高炉技術を学ぶ。1920年八幡製鐵所の大ストライキ
時は、「溶鉱炉の火を消すな」と高炉操業を陣頭指揮し、同年八幡製鐵所初の宿老に任命。もともと
宿老は戦国時代の武士階級のひとつで、八幡製鐵所の宿老は職工としての最高の地位であり名誉。
若い頃、操業中の事故で左目の視力を失いながらも高炉の状態を音で判断できたといわれる。98歳で
亡くなる直前まで高炉の仕事を続けた。

8 岩崎 俊彌  Iwasaki Toshiya   世界最大のガラスメーカー“旭硝子”創立者
1881年、東京市神田区生まれ。父は一代で三菱財閥を築いた岩崎彌太郎の実弟、母・早苗は明治
維新の元勲、後藤象二郎の長女。ロンドン大学に留学し、3年間応用化学の研究に従事。1907年、
尼崎で旭硝子㈱を創立、ベルギーより手吹式ガラス製造技術を導入。1914年に米国よりラバース式
機械吹法を導入、北九州牧山に新鋭工場を設立。当時、誰も成しえなかった手吹円筒法による板ガラス
の国産化に成功。北九州で機械吹円筒法による板ガラスの生産を導入して一大飛躍を遂げた。現在
旭硝子㈱は、世界最大のガラスメーカー。

9 大倉 孫兵衛  Okura Magobei   衛生陶器研究でTOTO設立の基礎を創り上げた
 
1843年、江戸四谷生まれ。絵草紙屋二代目・大倉四郎兵衛の次男。義兄・森村市左衛門が設立した
森村組で陶器事業の日本における調達を担当。国内の既製品だけでは売上が伸びないと、海外用に
西洋式コーヒー茶碗などを森村組で生産。さらに硬質白色磁器生産のため、7年に及ぶ苦心の末に
国内原料での生産を実現。1904年日本陶器合名会社を設立し、名古屋市則武の工場を立ち上げた。
1912年、長男・和親と工場内に「製陶研究所」を設置、衛生陶器の研究を行わせ、後のTOTO設立の
基礎を作った。今日の㈱ノリタケ、日本ガイシ㈱、日本特殊陶業㈱、などわが国有数の陶器製造産業の
基礎となる。

10 大倉 和親  Okura Kazuchika   父とともに陶器産業に貢献、TOTOの初代社長
 
1875年、東京日本橋生まれ。大倉孫兵衛の長男。1894年慶応義塾本科を卒業。父が幹部である
森村組に入社。1904年名古屋市近郊則武に森村組が設立した日本陶器合名会社の初代社長に弱冠
29歳で就任。当初は米国輸出用のディナーセットに苦労するが、完成後「ノリタケチャイナ」のブランドを
確立。1912年製陶研究所を設け衛生陶器の製造研究、便器などを試販。1916年福岡県企救郡
(現在の北九州市小倉北区)に小倉工場を建設。1917年工場開始にあたり東洋陶器㈱として独立。
日本陶器合名会社(現ノリタケカンパニーリミッテッド)、東洋陶器(現TOTO)、日本碍子(現日本
ガイシ)を創立、初代社長となった。

11 国司 浩助  Kunishi Kosuke   トロール漁船の発展に寄与し、
                                  東洋一の戸畑漁港を建設
美家の三男。水産講習所卒業後、政府から英独両国へ派遣、トロール漁業の現場を英国で学ぶ。
帰国後は田村市郎(後の日本水産㈱創立者)の支援を得て、田村汽船漁業部設立、本格的にトロール
漁業を開始。トロール漁業の発展の基礎を作上げた。東洋一の戸畑漁港の建設、ディーゼル・トローラー
ならびに冷凍冷蔵装置を装備したトロール漁船による遠洋漁業の開拓、南氷洋における日本最初の
捕鯨工船事業の創始など、新技術導入と化学的・合理的な経営によって、
今日の水産日本の礎を築く。
 


 

安川敬一郎

日本の産業近代化産業の歴史をつくった安川敬一郎
石炭産業から始まり、港湾、鉄道、紡績、製鉄、電気、窯業と様々な分野で中心的な役割を
果たし日本の産業近代化に最も貢献した男。
 
福岡藩士・徳永貞七の四男として1849年(寛永2年)に福岡県西村で生まれる。
徳永家には四人の男子がいた。長男以外は同藩士安川、松本、幾島家の養子となり
それぞれの
家督を継いだ。
四男の敬一郎は15歳で安川岡右衛門の養子となり、16歳から家督を継ぐ。
兄の戦死後、生計を維持するために大学を中退して長男と次男が共同経営していた炭坑事業に
参画し、その事業家としての歴史が始まる。
 
その功績を下記に示します、まさにこれは北九州での産業発展の歴史であり、
日本の産業近代化の歴史に一ページでもあります。
 
・1877年(明治10年) 芦屋に安川商店を開設し、石炭販売を直営した。
・1880年(明治13年) 高尾炭坑を経営開始 良質の粘結炭を算出
・1983年(明治16年) 平岡浩太郎と共に赤池炭鉱開発に着手
・1887年(明治20年) 大城炭坑を買収
・1889年(明治22年) 筑豊工業鉄道設立に参画
・1890年(明治23年) 若松築港会社設立の参画
・1895年(明治28年) 官営製鐵所設立が衆議院で可決
              その後八幡に立地すべく「洞海湾拡張計画」を打ち出し、誘致活動を展開した
・1897年(明治30年) 八幡が官営製鐵所建設地となる
・1899年(明治32年) 安川商店と松本商店が合併し安川松本商店となる
                高尾炭坑を八幡製鉄所に売却
・1901年(明治34年) 官営製鐵所創業開始
・1908年(明治41年) 明治鉱業を設立し、石炭業経営の基盤を確立
・1909年(明治42年) 明治専門学校(現在の九州工業大学)開校
・1911年(明治44年) 明治紡績合資会社を設立(明治、赤池、豊国炭坑を合併)
・1915年(大正4年) 合資会社安川電機製作所開業
・1917年(大正6年) 九州製鋼株式会社を設立(日本と中国の合弁会社である漢治萍公司が
                                          生産する銑鉄を原料とする製鉄会社)
・1918年(大正7年) 黒崎窯業株式会社を設立(九州製鋼の平炉用珪石煉瓦生産を目的)
・1920年(大正9年) 明治専門学校を政府所管に以降
・1928年(昭和3年) 九州製鋼株式会社の経営を八幡製鐵所に委託(1934年製鉄業から手を引く)
・1920年(大正9年) 男爵の爵位を受ける
・1924年(大正13年)貴族院議員となる
・1934年(昭和9年) 死去 86歳

田中熊吉 「高炉の神様」

生涯現役を貫いた「高炉の神様」田中熊吉
 
私が尊敬する、日本の近代産業の礎を築いた一人「田中熊吉」を紹介します。


 

官営八幡製鐵所の東田第一高炉の建設時1899年(明治32年)に職工として入社。
100歳まで生きると宣言し、生涯現役を貫き通し、1972年(昭和47年)の数え年の100歳で
人生の幕を閉じる。
田中熊吉が建設から携わった東田第一高炉も、彼の没年に歴史の幕を閉じた。

現在では東田記念高炉をして残され、その歴史を後世に伝え続けている。

    
田中が建設に携わった高炉(初代)           田中の後を追って幕を閉じた高炉(10代目)
 

生涯を高炉に捧げ、「高炉の神様」としてその功績を讃えられている、「田中熊吉」人生ドラマも
紹介していきますのでお楽しみにしておいてください。

野呂景義  近代鉄鋼技術の父

近代鉄鋼技術の父 野呂景義
1854年名古屋橦木町生まれ、1882年東京大学採鉱冶金学科を卒業し、
1895年~1889年欧米に留学した。
それから野呂景義の製鉄所ストーリーが始まる。
 
わずか2年で閉鎖した官営釜石製鉄所
1880
年(明治13年)官営釜石製鉄所が操業開始したが、
原料が近くに豊富に存在しないことや技術を全てイギリスから輸入したため、
わずか2年で閉鎖
 
釜石鉱山田中製鉄所が発足
その後1887年(明治20年)釜石鉱山田中製鉄所が発足し、操業を開始する。
1894年(明治27年)に野呂景義が顧問として迎えられ、日本初、コークス炉を利用した
銑鉄作りが成功した。
 
野呂が参画した製鉄事業調査会
1995
製鉄事業調査会は発足。
政府は野呂に一刻も早い製鉄所の実現を期待した。
野呂は、そうした性急な方針には反対であった。
「新しい製鉄所を立ち上げるには、釜石製鉄所の失敗の原因を徹底的に調査する必要がある」
成功は失敗から学ぶ。これが野呂の技術者としての信念であった。
足掛け2年釜石に通い、失敗の原因として
① 不十分な原料調査 ②全て海外技術に依存
と結論づけた。
野呂の新しい製鉄所建設構想は、始めに導入する技術は小さくてよい、技術そのものよりも、
外国技術を改良したり、それぞれの長所を取り入れる力、いわば技術を生かす「技術力」を重視した。
しかし、大型製鉄所を目指す政府方針に合わず、野呂は失脚した
 
その後野呂は、鉱山や製鉄所で技術指導を続ける。
 
東田第一高炉火入れ
1901
年2月、ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始。
しかし、その滑り出しは惨憺たる状況であった。
火入れの翌日1.2トン出銑したが、原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、
羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
その後対策を行って、操業を進めるもきわめて不良、予定出銑量160トン/日に対して
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、
銑鉄の品質は概して粗悪であった。
そしてついに1902年5月に休止した。 

急遽、野呂景義が呼び出され、製鉄所立上げが始まる
野呂の門下生である製銑部長服部斬が記した操業記録と現場を徹底的に調査した。
その結果、高炉の構造、高炉装入物の配合、炉内における装入物の溶結、数度に及んだ
送風停止が原因であると指摘。
結局、操業不調の主な要因は、炉床の冷え込みと使用するコークスの品質に起因することは
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。 
 
抜本的な設備改善と新しい技術の導入
炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。
コークス製造において、「二瀬炭に無煙炭もしくは三池炭を配合して、堅質で大塊のものを製造」
という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって
積極的な改善が進められた。     
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と操業指導が
必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
このように、我が国の自然的諸条件を軽視又は無視した技術の在り方が批判され、生産技術の
実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。 

 
再火入れ
1903年7月23日に再度火入れされ、以後操業は快調で1910年6月2日まで連続稼働し、
2140日に亘って出銑を続けた。 
 
八幡製鐵所創業の意義
野呂景義の汗と努力が実を結び、鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける
原動力となっている。
生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である。

清虚

今も部埼で海の安全を守り続けている『清虚』
九州の最北端の部崎は航海の難所で多くの人が遭難していました。
大分県国見町の旅僧「清虚」は高野山に行く途中、これを知り青浜に降り、この難所から人を救おうと
燈明台を建て、日中は托鉢をしながら夜は火を焚き続けた。

雨の日も風の日も休むことなく13年間焚き続け74歳で村人に見守られて世を去りました。
このあとも村人に引き継がれて、明治5年の部埼灯台(洋式灯台)ができるまで続けられた。
海辺には清虚の大きな像が1972年に建てられいまも海を見守っています。