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鉄鋼の産業発展物語 第9話 / 終戦までの苦難の歴史

   
1937年(昭和12年)に勃発した日支事変が長期化するころ、資源の供給力に乏しい
日本の経済は既に行き詰まり状態になっていた。
このような状況下で、1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃を行い、
太平洋戦争が始まった。
そして1942年(昭和17年)ミッドウェー海戦における敗北を境に戦局が悪化すると、
船舶の損傷によって南方資源の輸送力が激減し、国内では統制の対象となるべき
物資そのものが枯渇し始めた。
 太平洋戦争下の八幡製鐵所
海外からの資源に依存するわが国の鉄鋼業は重大な危機に直面する。
太平洋戦争開戦により、アメリカによる屑鉄禁輸出措置がとられ、ミッドウェー海戦によって
南方からの鉱石資源も途絶えた。
今まで有事に備えて備蓄してきた屑鉄や鉱石と、国内資源に頼りながら、
操業をづけることになる。しかし、備蓄資源もだんだん底を着き始め、屑鉄を一般回収する
措置もとられた。
 
  
   東田地区高炉群          洞岡地区高炉群
 
1944年(昭和19年)には、唯一の輸入先である中国からの鉱石や良質の強粘結石炭の
輸入が途絶え、高炉操業の継続が困難になり、国内で11基の高炉が休止し、
唯一操業を続けたのが八幡にある、東田第2高炉、東田第4高炉と洞岡第4高炉の
3基だけであった。
 

 
日本の戦争終焉まで
日清戦争後に製鐵所を建設し、そして日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日支事変を
経験し、戦争と向かい合わせで発展してきた日本。
しかし、太平洋戦争開戦時は既に行き詰まり状態の日本、1944年(昭和19年)から
崩壊の一途を辿って終戦を迎える。
 
●1944年(昭和19年)
6月16日:北九州地区空襲 (下関、門司、小倉、戸畑、八幡) 
日本全土の空襲が始まる


    北九州地区空襲

・8月29日:八幡空襲 八幡製鐵所の設備が大打撃を受ける 
 
●1945年(昭和20)年
・3月27日〜7月11日:関門海峡に5000個もの機雷を投下
・6月19日〜20日:福岡大空襲 約1,000人犠牲
・6月29日、7月2日:下関・門司大空襲 約18,000人犠牲
8月 6日:広島原爆 約123,000人犠牲 (ウラン型爆弾)
8月 8日:八幡大空襲 約2,500人犠牲
8月 9日:長崎原爆 約73,000人犠牲(プルトニューム型爆弾)
・8月15日:終戦
 
 ●原爆投下後の八幡製鐵所
1945年に8月8日の八幡大空襲で、八幡製鐵所も殆どの設備が壊滅状態だった。
しかし、高炉と最低限鉄を生産する設備は修復すれば使える状態であった。
終戦当時、唯一残った高炉は八幡製鐵所の3基だけであった。

 
       八幡製鐵所        住宅地
 
しかし、原料炭を供給する筑豊炭鉱や北松炭田も戦争の被害で操業停止の状態に陥った。
製鐵所の操業を維持することが戦後復興の重要な使命であり、八幡製鐵所の社員が
立ち上がり、自ら筑豊炭鉱や北松炭田に行き、自らの手で石炭を掘り、首の皮一枚だけ
繋がっていた日本の経済活動を維持していき、今日の豊かな日本につなげた。
 

 
なぜ長崎に原爆が投下されたのか
なぜ小倉(北九州)に原爆が投下されなかったのか?それは、北九州という括りでなく
各旧5市単位で戦闘計画を立てことも考えられる。
アメリカ軍は空襲と原爆の場所を入念に検討し計画した。原爆の場所決定に際しては、
被害が正確に測定できる半径5Km以上の市街地で軍事工場があるところを選んだ。
最終的に決まった場所が、広島市、小倉市、長崎市、新潟市。
当時、北九州市は存在しなかったため、八幡、門司、戸畑、若松は別の地域として扱っていた。
従って、小倉の隣にある八幡市は、空襲の標的とされ、8月8日に八幡大空襲に見舞われ、
2500人以上が亡くなった。

     
  煙幕の様子(訓練)  11:02 長崎原爆投下      投下地点
 
そして、運命の8月9日、原爆を搭載したB29が小倉市上空に差しかかるも、
前日の八幡大空襲の煙と煙幕を上げたことにより、投下目標地が確認できず、
長崎に変更、11時2分に松山上空で投下され、7万人以上もの尊い命が奪われた。
   
広島と長崎に投下された爆弾の種類はウランとプルトニュームを異なる。
このことは、明らかに原爆の威力を確認するための実験であった。
 

 
永井隆教授のメッセージ 長崎医科大学
自ら長崎原爆に被爆しながらも、多くの被爆者を救済しながら世界平和を訴え続け、
被爆から5年後に43歳の若さで亡くなった「永井隆教授」のメッセージを全世界に発信します。

  
  平和記念像       永井隆教授
 
たとえ針でも隠し持っているものは世界平和を祈る資格がない。
 
Message from Dr. Nagai

The person who prays for peace must not hide even needle, for a person 
possesses weapon is not qualify to pray peace.

 


 

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