Japan KYUSHU Tourist  ジャパン九州ツーリスト株式会社

We are the specialist’s for travel and tours in Kyushu, Japan
warmly welcoming customers from all over the world.

九州を旅行する日本人をはじめとする、世界中の人たちの旅行会社です

TEL +81 93-521-8897
FAX +81 93-521-8898
E-mail

鉄鋼の産業発展物語 第9話 / 官営製鐵所建設の背景 その1

 
製鉄所建設の歴史的背景
伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任した1885年(明治18年)頃の鋼材の民間需要は少なく、
我国の銑鉄の需要の60%はイギリス銑やインド銑に依存しており、鋼材に至っては民間需要の
全量を欧米から輸入していた。
しかし、鉄鋼の国内の需給率の向上は重工業の発展や軍機製造面必要不可欠であり、
一貫製鉄所建設が求められるようになった。
一方で、既に清国漢陽製鉄所が、自国の鉄鉱石を使い、ベルギー人の指導の基で稼働を始め、
日本へ軌条の売込及び九州の石炭の買い付けに訪れた。
これが日本の製鉄所建設に拍車がかかり1891年明治24年)に製鉄所建設構想が始まった
 
なぜ釜石製鉄所では駄目だったのか
1880年(明治13年)に操業を開始した官営釜石製鉄所は、イギリス式高炉2基を始め、
全ての設備をイギリスから輸入外国人技師の指導の基で建設された
高炉で銑鉄をつくり、バトル炉(反射炉)で錬鉄を製造して、錬鉄圧延製品をつくる
製鉄所だった。
錬鉄は鋼に比べて、強度が低く、品質の均質性にも欠き、生産効率も低かった。
いわば、時代遅れのプロセスの設備をイギリスが持ち込んだともいえる。

そこで、高強度、高品質の製品づくりが求められ、鋼を大量生産できる、製鋼設備を備えた
新しい一貫製鉄所の建設が必要であった。

 

参考)
当時の釜石製鐵所の鉄の年間の生産量は、1890年4,000トン1891年は9,000トンであったが、
ちなみに若戸大橋の鉄の使用料28,000トンから比べても、非常に量的に少なかった。

 

 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ  

 

鉄鋼の産業発展物語 第10話 / 官営製鐵所建設の背景 その2

 
ペリー来航後の時代の変化

1853年のペリーが来航を機に、幕府は海防の必要性を認識し、大型船製造禁止令を

廃止した。

その後各地で西洋式の海軍が設置され、時代が大きく変わり始める。
 
軍事ために始まった船造り
海軍士官養成のため、1855年に長崎海軍伝習所が設立され、幕臣や雄藩藩士から選抜して、
オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。 
その後各地で造船所が建設される。
1856年に萩藩で恵美須ヶ鼻造船所を建設し、日本初の洋艦を完成させた。
1857年には長崎製鐵所(造船所)が建設を開始し、1861年に創業した。
1858年には佐賀藩も三重津造船所が建設した。
江戸幕府は1865年に横須賀製鉄所(造船所)の建設を開始し、1871年に第一号ドックを完成させ、
1879年には日本初の軍艦「清輝」が竣工した。
神戸では民間で初めて、1878年に小野浜造船所を設立し、1885年には初代「大和」が進水し
日清戦争と日露戦争で使用された。
そして横須賀、呉、佐世保に鎮守所(海軍の基地)が設置され、その後海軍工廠へと移って行く。
ペリー来航以降、海防が軍事に向かって進んだような歴史をなっている。
 
造船用の鉄はどこで調達したのか 
江戸時代の日本では、農機具、鉄器や刀などの鉄づくりは、古来の「たたら製鉄」で行っていた。
そしてペリー来航を機に、西欧の技術書を元に各地で反射炉が建設されるが、造船用の鉄を
製造することはできなかった。
そして、1880年には官営釜石製鉄所が操業を開始するが、造船用の鉄(鋼)が製造できる
製鉄所ではなかった。
そのため、造船用の鋼材は全て外国からの輸入に頼らなければならなかった。

1896年に日清戦争で勝利したものの、その後の富国強兵のためには、独自の鉄(鋼)づくりが
必要で、新たな製鉄所建設が急務となった。

 

 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ  

 

鉄鋼の産業発展物語 第11話 / 「野呂景義」による幻の製鉄所設立計画

 
新製鉄所建設の背景

イギリスから技術を導入して1880年に操業を開始した官営釜石製鉄所だが、
外国人技師を始めとした技術者の経験不足と種々の技術上の問題によりわずか

2年間で 幕を閉じる。

その後1884年に田中長兵衛が製鉄所の一部設備の払下げを受け、製鉄事業への
挑戦が始まるが、根本的に造船やレール用の鋼を造れる製鉄所でなく生産量も低かった。
 
早急な製鉄所建設計画と野呂景義の対応
1891年に政府は軍事拡張のために一刻も早く製鉄所建設を実現すべく、野呂景義
製鉄所建設計画を託した。
 

 

しかし野呂は、そうした性急な方針に反対であった。

「新しい製鉄所を立ち上げるには、釜石製鉄所の失敗の原因を徹底的に調査する必要がある」

成功は失敗から学ぶことが野呂の技術者としての信念であった。

足掛け2年釜石に通い、導きだした失敗の原因として、 不十分な原料調査と全て海外技術に依存

したことと結論づけた。

野呂の新しい製鉄所建設構想は、始めに導入する技術は小さくてよい、外国技術を改良したり、
それぞれの長所を取り入れる力、いわば技術を生かす「技術力」を重視した
「製鉄所建設計画案」を提出した。

 

しかし、大型製鉄所を目指す政府方針に合わず、野呂の案は否決され失脚する

その後の製鉄所建設は和田維四郎を中心に行われる。
 
野呂景義ものがたり 
失脚した野呂景義は、釜石の田中鉱山製鉄所で日本初のコークス炉を使った製鉄に成功する
など技術面で多大な貢献をしていく。
最終的には、八幡製鉄所の立上げに大きく貢献し、近代鉄鋼技術の父を呼ばれている。
 

ここでは、上記の製鉄所建設計画(1891年)までの野呂景義の物語を紹介する。

1854年名古屋橦木町生まれ、東京大学に入学し、ドイツから招かれたCurt NETTO教授の
基で採鉱冶金学科を学び1882年に卒業し、やがて助教授になる。

1885年5月からヨーロッパに留学し、まずロンドン大学で機械工学と電気工学を学び、
1986年4月からドイツに転じ、もっぱらFreibergのLEDEBUR教授について鉄冶金学を修めた。

野呂は世界有数の鉄冶金学者であると同時に、生産現場での豊富な技術経験を積んだ
LEDEBUR教授から、日本の近代化についての重要なことを学んだ。

 
それは、「伝統技術のよった風土の条件を考慮することが大切であること、
そして冶金学の立証する技術条件や経済条件との相関関係のうえに立地・設備計画を
決定すべき」
であること
 

1889年に帰国し、帝国大学工科大学の鉄冶金の教授に就任し、1891年には鉄冶金分野では
最初の工学博士を授与された。

そして同年、政府の依頼によって製鉄所建設計画案を提案提示したが、否決され失脚する
ことになった。
 

その後の、物語は次回以降につづきます。

 

 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ  

 

鉄鋼の産業発展物語 第12話 / 官営製鐵所が八幡に決定

 
製鉄所建設計画
日清戦争後、軍備増強と産業資材用鉄鋼生産の増大を図るため、1896年(明治29年)に
第9回帝国議会で製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
その内容は日清戦争前に「野呂景義」が提案した製鐵所建設構想と異なり
和田維四郎わだ つなしろうによる銑鋼一貫の巨大製鉄所構想であった

初代長官の山内提雲の後任で、2代目の長官となった和田維四郎が、製鉄所創立の
中心的な役割を果たす。

 

   
     和田維四郎  大島道太郎


技監は本来なら、日本で初めてコークス炉を使った製鉄法を成功させ、日清戦争前まで
製鉄所建設構想を作り上げた野呂景義が考えられるが初代長官の山内が
大島道太郎を任命した大島道太郎は、近代製鉄の父大島高任の長男
総予算額650万円、その中に清国から受け取った賠償金のうち58万円が含まれる
 
製鉄所建設地の検討 
 
 1)17の地域が候補地
1896年に政府によって17の地域が候補地として選ばれた。その中の3地域が北九州。
青森 釜石 塩釜 千葉 品川 鶴見 静岡 和歌山 梅田 尾道
呉 大竹 大牟田 長崎 大里(門司) ⑯板櫃(小倉) 八幡(八幡)
各候補地とも郷土に近代的な製鉄所をと意気込み誘致活動を展開し、
お互いに一歩もゆずらなかった。

 2)
現地調査の実施
大島道太郎が候補地決定の責任者となり、調査団を率いて候補地を調査した。
その立地の条件は、①広大な建設用地が安価で得られる ②海上・陸上の交通の便がよい
② 原料と燃料が得やすいことが考慮された。
調査の結果、4ヶ所に絞られる。

広島県大里門司板櫃小倉八幡八幡

 

    
        呉         板櫃 & 大里       八幡

 
原料と燃料入手の点で呉は落ちて、北九州の三村が残る。
 
 3)大里が第一候補
その中で、大島は、石炭に入手には洞海湾(八幡)だが、若松港の水深が浅く到底大型船を
出入りさせることができないと、一旦は「大里第一」とした。
大里は、筑豊炭田を背後に持ち、アシが生い茂る湿地帯が多い土地、海陸の交通条件に優れ、
八幡が足元に及ばない人口を抱えていた。
更に、江戸時代に村の一角から鉄鉱石と銅鉱石が採掘されていたことも影響している。

 4)八幡の立地に向けての取組
これに対して、若松築港会社会長の安川敬一郎は、水深を深くすれば大里に勝ると確信し、
起死回生の政治工作を行う。
旧黒田藩主・金子堅太郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一の同意を得、渋沢栄一と後の長官和田維四郎
を通じて、大島と長官山内堤雲の説得を依頼した。

こうした安川敬一郎の運動が紅を奏し、用地買収担当の製鉄所事務次官に八幡出張の
辞令が出された。

 

  
  安川敬一郎      芳賀種義

 
当時の八幡村は、人口2,000人足らずの農業と漁業を営む寒村であった。
製鉄所建設用地確保のため、八幡村の芳賀種義村長「八幡村に製鉄所を、日本の
鉄づくりは八幡から」
と熱心に村民を説得し、100万m2もの広大な土地を地価の
半値で売り払うことに協力してもらった。
 
官営製鐵所が八幡に決定
こうした後、1897年2月6日「官営製鉄所は福岡県 下筑前国遠賀郡 八幡村に置く」
と公布された。

             製鉄所建設前の八幡村

 

そして、1901年の創業に向けての建設工事が開始される。

 

 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ  

 

鉄鋼の産業発展物語 第13話 / わずか4年で田畑に製鉄所をつくった偉業

 

建設機械もない時代、熟練工もいない時代に、八幡村の田畑に製鉄所建設が決定されてから、
わずか4年間で、近代的な一貫製鉄所をつくった。
そして、近代国家をつくりたいという日本人が熱い想いが結集して苦難の突貫プロジェクトを
完遂させた。

 

 
どこから技術を導入するか
製鐵所建設に際しては、海外の技術を導入することが決定され、1897年(明治30年)に
大島道太郎を中心とする調査団の海外派遣が行われた。
アメリカ、フランス、ベルギーを経てドイツに渡った。
そして、日本が求めている多品種の鉄鋼製品をつくっているドイツのGHH製鉄所を実地調査し、
一貫製鉄所の建設エンジニアリング、機械、資材の供給、指導技師や職工長の派遣、
技術者の実習受け入れについて、全計画をGHHに委託する契約を締結した。
 
日本人の熱い想いが成し遂げたプロジェクト
当時は設備関連の技術蓄積もほとんどなく、職工も素人が多く棟梁、左官、石工、
鍛冶等の従来型の職人はいたが、洋式工事の技能熟練者は皆無に近かった。
そのため、ドイツ人技師を雇い入れて指導を仰ぎ、八幡村の農地に製鉄所建設工事
が始まった。
 

  

 

1897年(明治30年)に工務部機械課を設置し設備基本計画、機材発注及び
基礎工事を始める。
機械設計や熟練工は陸海軍工廠に要請し派遣してもらった

1898年(明治31年)には高炉関連設備の調達を始める
高炉、捲揚設備、熱風炉、送風機設備、その他起重機や耐火煉瓦の設計、製作は
GHHに委託し、担当工事が竣工するまでドイツ人職工長が滞在した。
1899年(明治32年)にはGHHからの資材が到着し設備の据付工事が開始された
わずかな指導者の元で多くの素人工を率いてドイツからの輸送中に生じた鉄骨の
変形や
形状の悪い煉瓦の手直しもしながら苦労の多い仕事を行った
この年に本事務所(世界遺産)が完成した
1900年明治33年修繕工場(世界遺産)鍛冶工場(世界遺産)堂山製罐及び
尾倉鋳造が完成した

また、建設中の1900年には、初代内閣総理大臣の伊藤博文を始め多くの関係者が訪れ
東田第一高炉の前で記念撮影を行った。
 
   

そして、1901年2月5日東田第一高炉に火が入り
11月18日に多くの来賓を迎えて作業開始式が行われ、官営八幡製鐵所が創業した。
 
操業当初の設備仕様
 
  
 
①製銑設備 
 高炉(160t/日)x2基、コッパー式コークス炉 200窯  
②製鋼設備
 ベッセマー転炉(10t)x2基、シーメンスマルチン炉x4基、ガス発生炉x12基
 混銑炉(160t)x2基
③圧延機
 分塊圧延、軌条圧延、大形鉄圧延、中形鉄圧延、小形鉄圧延、薄板鉄圧延
 中板、大板圧延、鍛熱炉(均熱炉、加熱炉)x22基
④工作工場

 修繕工場、鍛冶工場、製罐工場、鋳造工場

 

 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ   

 

鉄鋼の産業発展物語 第1話 / 八幡製鐵所の苦難の船出

 

わずか4年で田畑につくり上げた製鉄所、1901年2月5日に東田第一高炉に火が入り、
我国初の近代製鐵所が操業を開始した。

 

  

 
けど操業当初から計画通り生産できずトラブルの連続、ドイツ人も対策を
講じることができなかった。
 
惨憺たる操業開始時の状況
1901年2月、ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始。
しかし、その滑り出しは惨憺たる状況であった。 火入れの翌日1.2トン出銑したが、
原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、羽口の閉塞などで3日間休風
(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
その後対策を行って、操業を進めるもきわめて不良、予定出銑量160トン/日に対して、
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、銑鉄の
品質は概して粗悪であった。そしてついに1902年5月に休止した。
 
問題の大きな要因
技術導入したGHHはドイツの中堅鉄鋼会社であり機械製作会社であった。最も重要な設備である
高炉や平炉の
設計はGHH自体でなく、当時一人者とされていたン個人であり、自ら開発した
実績のない新しい設備が含まれていたのではないか。
そして、わが国の石炭性状に対する知識や認識が甘く、それが設備に反映されてなかったことが
安定操業できなかった要因であった。
そのため、日本の原料事情考慮し、日本人自らの手で問題解決する早急に必要があった。
 

 
野呂景義による原因究明と対策
日清戦争前に製鉄所建設構想をつくり、我が国初のコークスによる高炉操業を成功させた
野呂景義が急遽呼び出され、陣頭指揮をとる。


 
①原因の徹底究明
野呂の門下生である製銑部長服部斬が記した操業記録と現場を業徹底的に調査した。
その結果、高炉の構造、高炉装入物の配合、炉内における装入物の溶結、数度に及んだ
送風停止が原因であると指摘した。
結局、操業不調の主な要因は、炉床の冷え込みと使用するコークスの品質に起因することは
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。
 
②抜本的な設備改善と新しい技術の導入
炉圧に対してあまりにも大きい炉床と、炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の
改善を行った。コークス製造において、「二瀬炭に無煙炭もしくは三池炭を配合して、
堅質で大塊のものを製造」という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術や
コークス炉の改良が相まって積極的な改善が進められた。
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と
操業指導が必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
このように、我が国の自然的諸条件を軽視又は無視した技術の在り方が批判され、
生産技術の実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な
限り改良がおこなわれた。
 
一方、高炉で生産された銑鉄を精錬する製鋼部門でも、高炉と同じような欠陥があり、
その分野でも抜本的な改善がなされた。
 
再火入れ
1903年7月23日に再度火入れされ、以後操業は快調で1910年6月2日まで連続稼働し、
2140日に亘って出銑を続けた。
 
八幡製鐵所創業の意義
人々の汗と努力が実を結び、鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける原動力と
なっている。

 


生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である

 

 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ 

 

鉄鋼の産業発展物語 第2話 / 日露戦争が八幡製鐵所拡張に拍車をかける

 
八幡製鐵所の建設時の生産能力は9万トン/年であったが、1901年の操業開始からトラブルの
連続で惨憺たる状況だった。そして野呂景義を中心とした原因究明と対策で1904年にやっと
軌道に乗った。
しかし時を同じにして1904年に日露戦争が始まり、兵器や弾薬不足で苦しむ。
 
日露戦争と鉄づくり
1904年に日露戦争が開戦された時の鉄の需要は26万トン/年に対して、大幅に供給量が
少なく兵器や弾薬不足に苦しんだ。そのため、他の目的に鉄を使用せず、武器弾薬の
製造に集中した。そして、1905年に戦争は終結したが、このような惨憺たる苦労が、
その後の国防強化に拍車をかけることになった。
 
日清戦争後の第一次拡張計画 (1906年〜1910年)
戦後、軍事需要とともに、造船、建築、橋梁用鋼材の民間需要も増え、1905年時点で鉄の需要が
45万トンに対して36万トン/年も不足し、大部分を輸入に頼らなければなかった。

そのため、1906年に第一次拡張計画を策定し、18万トン/年を目標に設備の拡張が行われた。

 

高炉の拡張

東田1高炉〜3高炉)

 コークス工場増設

1909年に東田第3高炉が火入れし、1910年までに混銑工場、線材工場、第二分塊工場、
第二小形工場、鉱滓煉瓦工場、コークス炉増設、ロール工場拡張など数多くの設備が
増強された。

 

 中央汽缶場

 遠賀川水源地ポンプ室

設備増強に伴い、工業用水の使用料も大幅に増えため、遠賀川水源地ポンプ室(世界遺産)
も建設し、1910年に稼働を開始した。

 

 
八幡製鐵所周辺の主な歩み(1899年~1910年)
・1899年 門司市誕生
・1900年 小倉市誕生
・1901年 鉄道連絡船 門司~下関開通
・1902年 九州電気軌道 門司〜黒崎開通、戸畑~小倉間の鉄道開通(戸畑駅開設)
・1903年 横須賀、呉、佐世保の鎮守府を海軍工廠に変更
・1904年 鈴木商店 大里製糖所創業
・1905年 若松石炭協同組合事務所開設(石炭会館)、日本初の潜水艇が進水(横須賀)
・1906年 東京製鋼 小倉工場創業
・1907年 戸畑競馬が始まる
・1908年 鹿児島本線が戸畑経由に変更、安田工業八幡工場創業、明治紡績&明治鉱業創業
・1909年 日本初の戦艦「薩摩」が竣工、明治専門学校(後の九州工業大学)開設

・1910年 筑豊石炭協同組合直方事務所開設、森田範次郎商店(後のシャボン玉石けん)創業

 

 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ 

 

 

鉄鋼の産業発展物語 第3話 / 日露戦争後の反動不況と鉄鋼需要の伸び

 
日露戦争後に不況に転じるが、我国の産業構造は着実に変化していく。
政府は財政の引き締めを行いながらも軍事拡大に力をいれ、民間においても、鉄道・造船の
鉄鋼需要は大きく伸びるとともに、工場・道路・港湾等の整備のために鋼材消費も大量にのぼった。
1910年の鉄鋼需要は53万トン/年にのぼるが、国内の生産高はわずか17万トンであり、
その不足分は輸入に頼らざるをえない状況であった。
 
第二期拡張計画(1911年〜1916年)
鉄鋼の大幅不足に状況下で政府は、第二期拡張計画を立案し、東田第四高炉を中心とし、
製鋼・圧延部門の増強を図り、鋼材年産35万トンを目標とした。
投資総額1,615万円で1911年(明治44年)から6ヶ年計画で拡張した。

コッパ-ス式コークス炉

 第二製鋼工場

   鉱滓煉瓦工場

【主な設備】

東田第四高炉:250トン/日、コッパース式コークス炉(自社製):120基、400トン/日
煉瓦工場拡張、第2製鋼工場新設、電気炉工場、第3分塊工場、第2中形工場、
第3小形工場、第2厚板工場他
 

 
八幡製鉄所周辺の主な歩み

   鈴木商店

   門司港駅

  若松市

・1911年 路面電車 門司〜黒崎開通、田村汽船漁業部(ニッスイの前身)創業
     出光商会(出光興産の前身)創業、戸畑鋳物(日立金属&日産の前身)創業
・1912年 日本鋼管創業
・1913年 タイタニック号沈没
      鈴木商店関連創業(帝国麦酒、大里硝子製造所、大里酒精製造所)
      旧松本邸(西日本工業倶楽部の前身)完成
・1914年 若松市誕生、第一次世界大戦開戦、門司駅が現門司港駅のところに移転

・1916年 大阪砲兵工廠が小倉兵器製造所となる」

 


 

 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ 

 

鉄鋼の産業発展物語 第4話 / 第一次世界大戦後に鉄鋼需要が大幅に伸びる

 
1914年に勃発し、1918年にドイツの敗北をもって集結した第一次世界大戦は、それまで
日露戦争の反動不況に悩んでいたわが国に未曾有の「大戦景気」をもたらした。
そして、鉄鋼需要産業である、金属・化学・造船・機械等の重工業や電力業の伸びが飛躍的に
加速した。
鉄鋼需要の70%を輸入に頼っていたわが国は、第一次世界大戦により各国が輸出禁止措置を
とることによって、空前の「鉄餓死」に見舞われた。
そこで、八幡製鐵所の第三拡張計画を行うことになる。
 
第三期拡張計画(1917年〜1927年)
第二期拡張計画で年産能力35万トンとなったが、これを65万トンに一気に倍増する計画、
予算は3,450万円で1917年から拡張した。
 
主な設備
東田第5高炉、東田第6高炉、黒田式コークス炉新設(2基)、第2製鋼工場拡張
坩堝鋼工場拡張、鍛鋼工場及びバネ鋼工場拡張、珪素鋼板工場、薄板及びブリキ工場新設
ドロマイト工場新設、発電所及び変電所新設、岸壁整備、河内貯水池
 
本事務所移転

 初代本事務所

 2代目本事務所

 
1899年に建設された本事務所は、製鉄所拡張に伴い手狭となり、1922年に2代目に
本事務所に移設された。              
 

八幡製鐵所周辺の主な歩み

 小倉製鋼所

 アインシュタイン来日

 戸畑市役所

・1917年 八幡市誕生、東洋陶器(TOTOの前身)創業

 神戸製鋼所門司工場(神鋼メタルプロダクツの前身)
・1918年 小倉製鋼所(住友金属工業、新日鐵住金の前身)創業、黒崎窯業(クロサキハリマの前身)
     山九運輸(山九の前身)創業、鈴木商店日本冶金(東邦金属の前身)創業
     明治紡績創業
・1919年 桑木あやお(明治専門学校教授)日本人で初めてアインシュタインに会い
 相対性理論を日本に広める
 戸畑競馬場が三萩野へ移る
・1921年 門司港 欧州航路と上海航路を開設
・1922年 アインシュタインが来日し講演活動を行う、門司に宿泊、中原海水浴場開設
・1923年 関東大震災 約105,000人が犠牲
・1924年 戸畑市が誕生

・1927年 門司西海岸の大規模港湾が完成

 


 

 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ 

 

鉄鋼の産業発展物語 第5話 / 河内貯水池物語

 
世界遺産登録の引き金となった土木遺産そして裏側に秘められた物語!
   

河内貯水池は、八幡製鐵所の第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919年(
大正8年)
に竣工し、8年の歳月をかけて延90万人の人々の手で1927昭和2年)に完成した。 
 

その総指揮者が、土木技師の沼田尚徳当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」

いうヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と情熱を注いだ大事業。
この美しい景観の裏側に秘められた「愛と悲しみ、そして情熱」河内貯水池物語
紹介します。
 

 

水戸藩の沼田家

1875年(明治8年)、水戸藩に代々仕えた武家の家系で生まれた
沼田家は尊王攘夷派/天狗党結成の発起人の一人である伯父沼田順次郎
藩幹部の筆頭書記官で祖父沼田久次郎を持ち、そして祖父とともに「大発勢」と呼ばれる
討伐隊に加わり、明治維新後は教育者の道を歩んだ沼田順三郎の長男として生まれた
 
青年時代
1894年(明治24年)旧制第一高等中学に入学、そして新たに新設された京都帝国大学に
1897年(明治30
年)に入学し土木技術や鉄筋コンクリート技術学び、更に水道施設や
琵琶湖疏水などの技術にも関心を持っていたと言われている
 
官営八幡製鐵所に入社
1900年(明治33年)に京都帝国大学を第一回生として卒業、当時建設中だった
官営八幡製鐵所に土木技師として入社した。

1901年(明治34年)東田第一高炉に火が入り、日本で初めての銑鋼一貫製鐵所が操業を開始する

1902年(明治35年)に技師を命じられ1911年(明治44年)に修築科長となり
1915
年(大正4年)にはアメリカとイギリスに出張した

  
 
手がけた工事は繋船壁築造工事に始まり、40万坪の洞岡埋築、くろがね線建設そして
河内貯水池や養福寺貯水池建設といずれも当時の日本で最大級の土木工事ばかりである。
 
最初の挫折
1916年(大正5年)に竣工した下大谷貯水池がわずか1ヶ月余りの後に豪雨で脆くも決壊し
製鉄所や付近の住宅地域に多大な被害を及ぼし住民1名の尊い命を奪う大惨事を引き起こした
事故の原因は堰堤の強度不足であった。事故により尊い命が犠牲になったことが大きな
心の痛手となり、その後この教訓から、建設現場を自らの足で歩き自分の目で確認する
現場第一主義の仕事スタイルを育んでゆく。
 

 
渾身の大事業、河内貯水池 「土木は悠久の記念碑」
製鉄所第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919大正8年)に竣工し
8年の歳月をかけて1927昭和2に完成した

当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく
英知と情熱を注いていく。

かつての河内地域は、八幡製鐵所から南10㎞ほど谷あいの31戸が暮らす
自然豊かで平穏な農村、また都市の児童の山村留学も受入れている教育先進地域

 

    

その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。

ダムには当時最新の土木技術をふんだんに用い、一方で現場の石材や自社鋼材を
用いた独自の設計で土木構造物への新しい挑戦をした。
更に環境にも優しい工法を積極的に採用し将来市民の憩いの場所をすべく、
橋から取水塔、管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。

  
 
このことは、先祖代々の土地と故郷の美しい自然を提供し、建設に協力を惜しまぬ
村人へ何としても恩返しでもあった。
安全管理でも最新の配慮がなされ、当時の西日本最大級の難工事にも関わらず8年の
建設期間中1名の死者も出さなかった。

80年経過した今でも給水の本来の機能を果たしながら、憩いの場として多くの人達に
親しまれている。

独特の英知を凝らして作った堰堤ヨーロッパの古城をイメージ

当時コンクリートは高価の為、粗石を混ぜて使用、銅板を内部に入れた伸縮継手で
亀裂を防止した。


 

工事段階での型枠代わりに石壁をつくり、ダム完成の耐久性を確保。

  

 
使用した切石は12万個、加工時発生した小さな石も、付帯建築物に張付けて
美観に優れたダムを作り上げた。
 

 

悲しみを乗り越えて

河内貯水池建設中、沼田尚徳は現場では明るく振る舞っていたが、数々の悲しみを心に
押し潜めていた。
山の神はこの大事業と引き換えにかけがえのない家族を貢ように強いて
いたようでもあった。父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが
妻泰子。しかし、最愛の妻もダムの完成を待たずして猩紅熱でこの世を去ってしまった。
 

  

 

その後母も亡くなり、家族をダムが人柱として飲み込んでしまったような悲劇であった。

河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、
妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。

  

碑の両面には、日本語と英語でその思いが刻まれている。

  
  日本語 (河内貯水池側)   英 語(神社側)
 
【日本語】
愛する妻の魂はどこにあるのか。麗しきあの人と今は世を隔て、
素晴らしき日々は夢に帰してしまった。散り行く桜の前にたたずむと断腸の思い。
【英 語】
IN MY MEMORY OF MY LATE BELOVED WIFE MRS. YASUKO NUMATA 
THROUGH WHOSE SELF-SACRIFICE AND UNDER GOD’S BLESSING 
I HAVE ENABLED TO CONSTRUCT KAWACHI WATER WORKS.
 

 
企業利益より社会貢献 沼田尚徳の美学
実直でロマンティストの沼田尚徳は、営利栄達にはあまり縁がなかった。これほどの大事業を
成功させ、製鉄所と八幡市の発展の礎を築いき、勲三等瑞宝章まで授与され、製鉄所では
土木部長でありながら製鉄所長官に次ぐ処遇を受けていた。
にも関わらず、1930年(昭和5年)に55歳の誕生日を待たずして静かに勇退した
その後、八幡、戸畑、若松市の委託として三市の上水道整備を指導し多大な貢献をし
日本最大の軍事工場であった小倉陸軍造兵廠の土木関連業務も手がけたが
1934年(昭和9年)に全ての職を辞し田舎に陰棲した
 

 
遠 想
河内貯水池の堰堤を見下ろす小高い場所にヨーロッパの古城を模したと言われる管理事務所が
建っている。その出入り口に沼田尚徳の「遠想」の言葉を刻み込んだ石の掲額が残されている。


 
ここから河内貯水池を静かに見下ろしながら、遠く未来の想いを馳せているに違いない。
その未来の姿はどのようなものであったのであろうか。それは百年経った今でも人々の
潤し続ける河内貯水池の姿、そして彼が残した礎の上にいつまでも成長を続ける
日本の未来だったのではなかろうか。
 

本投稿は、西日本ペットボトルリサイクルの千々木亨氏の論文 鉄都に生きる男たちから
引用させてもらいました。

 


 

 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ