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Kyushu Travel Guide

世界遺産の謎に迫る/八幡製鉄所立ち上げ時の苦難

八幡製鐵所立ち上げ時の苦難野呂景義の功績
 
・ドイツ式大規模生産方式で始まった、日本初の銑鋼一貫製鉄所。 
・操業開始時は惨憺たる状況。
・製鉄所建設前に失脚した、野呂景義が呼び出される。
・徹底した原因究明と抜本的な改善で再火入れ。
・今日の世界に誇るものづくり日本の原点がここで育まれた。
 
操業開始時は惨憺たる状況
1901年2月、ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始。
しかし、その滑り出しは惨憺たる状況であった。
火入れの翌日1.2トン出銑したが、原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、
羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
その後対策を行って、操業を進めるもきわめて不良、予定出銑量160トン/日に対して
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、
銑鉄の品質は概して粗悪であった。
そしてついに1902年5月に休止した。 

急遽、野呂景義が呼び出される
野呂は、我が国初のコークスによる高炉操業に成功し、日清戦争前の全て日本の原料を使う
製鉄所建設構想を立案したが、採用されず、それ以降製鉄所には関与していなかった。
 
原因の徹底究明
野呂の門下生である製銑部長服部斬が記した操業記録と現場を徹底的に調査した。
その結果、高炉の構造、高炉装入物の配合、炉内における装入物の溶結、数度に及んだ
送風停止が原因であると指摘。
結局、操業不調の主な要因は、炉床の冷え込みと使用するコークスの品質に起因することは
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。 
 
抜本的な設備改善と新しい技術の導入
炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。
コークス製造において、「二瀬炭に無煙炭もしくは三池炭を配合して、堅質で大塊のものを製造」
という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって
積極的な改善が進められた。
   
       高炉設備                   炉内の羽口                 高炉の鉄皮           
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と操業指導が
必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
このように、我が国の自然的諸条件を軽視又は無視した技術の在り方が批判され、生産技術の
実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。
 
再火入れ
1904年7月23日に再度火入れされ、以後操業は快調で1910年6月2日まで連続稼働し、
2140日に亘って出銑を続けた。
 

八幡製鐵所創業の意義
人々の汗と努力が実を結び、鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける
原動力となっている。
生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である。
 

 


野呂景義の功績  前職が新日鐵の高炉設備エンジニアとして解説します。

今回は専門的な説明が多くて分かりにくいと思いますが、ここで述べられた
原因や改善策は、今日の設備設計や操業技術の重要な基礎となっています。
また、ここで実施したことは、前例もなく、誰も教えてくれなかったことです。
野呂景義がロンドンやドイツに留学して学び、帰国後に製鉄所や鉱山で技術指導しながら、
現場で自ら培った技術によるものであると思います。
高炉に関する、教科書や技術論文などない時代に、ドイツの最新技術を導入して火入れした
不調の高炉に、このような抜本的な改善を施した。
そしてその後の順調に操業を進め、今日の八幡製鉄所の基礎を築いたことは、
恐るべき功績であると思います。

その陰には、絶え間ない日々の努力があったものと考えます。


 

野呂景義の想い
鉄は工業の母、護国の基礎なり。

製鉄の業起こらざれば万業振るわず。

 

 


【遺産の裏側に隠された物語】

 
 
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世界遺産の謎に迫る / 官営製鐵所がなぜ八幡に立地

全国17ヶ所が候補地
第一候補地
は門司の大里だった!
八幡立地の最終決定は、安川敬一郎の政治工作が功を奏す。
 
軍備増強と産業資材用鉄鋼生産の増大を図るため、1896年(明治29年)に第9回帝国議会で
製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
総予算額650万円、その中に清国から受け取った賠償金のうち58万円が含まれる。
 
1996年に政府によって候補地が選ばれた。
青森、釜石、塩釜、千葉、品川、鶴見、静岡、和歌山、尾道、呉、大竹、梅田
大里(門司区)、板櫃(小倉北区)、八幡(八幡東区)、大牟田、長崎
各候補地とも郷土に近代的な製鉄所をと意気込み誘致活動を展開し、
お互いに一歩もゆずらなかった。
 
大島道太郎が候補地決定の責任者となり、調査団を率いて候補地を調査した。
その立地の条件は、①広大な建設用地が安価で得られること
②海上・陸上の交通の便がよいところ③原料と燃料が得やすいところ。
 
調査の結果、北九州の3ヶ所を含む、4ヶ所に絞られる。
①呉(広島県) ②大里(門司区) ③板櫃(小倉北区) ④八幡(八幡東区)
    
                   呉                          大 里                   八 幡
 
原料と燃料入手の点で呉は落ちて、北九州の三村が残る。
 
その中で、大島は、石炭に入手には洞海湾(八幡)だが、若松港の水深が浅く到底大型船を
出入りさせることができないと、一旦は「大里第一」とした。
大里は、筑豊炭田を背後に持ち、アシが生い茂る湿地帯が多い土地、海陸の交通条件に優れ、
八幡が足元に及ばない人口を抱えていた。
更に、江戸時代に村の一角から鉄鉱石と銅鉱石が採掘されていたことも影響している。
 
これに対して、若松築港会社会長の安川敬一郎は、「水深を深くすれば大里に勝る」と確信し、
起死回生の政治工作を行う。
 
旧黒田藩主・金子堅太郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一の同意を得、渋沢栄一と後の
長官和田維四郎を通じて、大島と長官山内堤雲の説得を依頼した。
こうした安川敬一郎の運動が功を奏し、用地買収担当の製鉄所事務次官に
八幡出張の辞令が出された。

  
    安川敬一郎                芳賀種義
そして八幡村の芳賀種義村長が「八幡村に製鉄所を、日本の鉄づくりは八幡から」と熱心に
村民を説得し、100万m2もの広大な土地を地価の半値で売り払うことに協力した。
 
こうした後、1897年2月6日に「官営製鉄所は福岡県 下筑前国 遠賀郡 八幡村に置く」
公布された。
    
そして、1901年に東田第一高炉が火入し、日本の近代製鉄の幕が開いた。
 
安川敬一郎は筑豊炭田の有力炭鉱であっただけでなく、その政治的・経済的人脈を通して、

八幡に製鉄所を立地に決定的な役割を果たした。

 

 

 


 

【遺産の裏側に隠された物語】  
 
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おいでませ山口へ

おいでませ山口へ 北長門海岸国定公園の美しい海岸線の景観を満喫
【モデルプラン】


エメラルドグリーンの海の景観に調和した長さ1,780mの角島大橋
山陰屈指の水揚げを誇る漁港、また童話作家金子みすゞが愛した
心のふるさと仙崎の散策。
捕鯨の歴史を今に伝える島、「海上のアルプス」と称される断崖絶壁・石柱など
数多くの奇岩・怪石が連なる景勝地がある青海島

●推奨行程 所要時間:8時間
 JR小倉駅新幹線口出発 → 関門橋経由で山陰の199号線 → 川棚で休憩
 → 角島大橋 → 仙崎で昼食と散策 → 青海島散策 → 中国自動車道 → JR小倉駅解散 

  
       角島大橋                    金子みすゞ記念館                   青海島  


●基本条件
 ・参加人数: 20~45名
 ・交通手段: 貸切バス利用 人数に応じて決定 (大型;45人又は49人乗、中型:28人乗、小型:24人)
 ・出発・解散場所: 北九州市内のご指定の場所
 ・食 事: ご希望に応じてアレンジします。
 ・料 金: ツアーの条件に従い、お見積りいたします。

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環境未来都市・北九州市

 
北九州市産業観光や環境関連の学びにおいて、最適の都市です。
その環境未来都市・北九州市を紹介します。

1.環境未来都市・北九州市
日本の産業が始まったまち、公害を克服しながら、日本の産業を支え、
世界の環境づくりを牽引する環境モデル都市北九州市。
 
北九州市は九州の北端に位置し、人口96万9千人(2013年5月の推計人口)、面積約490平方キロの政令指定都市です。
港町として繁栄した門司市、軍都としての歴史を持つ小倉市、石炭の積出港として賑わった若松市、
そして鉄鋼を中心として日本の産業近代化を支えた八幡市と戸畑市が1963年、世界でもまれな
五市の対等合併により誕生しました。
 
経済の基礎には鉄鋼、化学、金属といった重化学工業があり、市内総生産に占める製造業の比率が他都市に比べて高い、
ものづくりのまちです。門司及び若松の築港から始まり、1901年に官営八幡製鐵所が誕生して以来、様々なものづくりの
産業も生まれて、日本の産業発展を支え、アジアと地方への玄関口にもなりました。

1960
年代には深刻な公害問題を経験しましたが、それを産学官の協力のもと見事に克服しました。その過程で蓄積した
技術をとノウハウ、人材、市民と産学官のネットワークを生かしながら環境に関する新技術の創出や開発を続け、
エコタウン事業に代表されるリサイクル・新エネルギー分野など、環境ビジネスに発展しています。

2008
年に「環境モデル都市」に認定され、2011年には「環境未来都市」や経済協力開発機構(OECD)から
「グリーン成長モデル都市」に選定されるなど世界の環境をリードする役目を担っています。
 
2.環境の歴史
国内最悪の大気汚染と死の海と化した洞海湾から
婦人会をはじめとする市民運動を発端に公害から脱し、青空を取り戻した。
 
かつて「公害の街」として知られていた北九州市は、その克服の過程で蓄積された経験やノウハウを環境国際協力に活用、
今や日本の循環型社会づくりの実践者としての牽引役を果たしています。
1901年の官営八幡製鉄所の立地から工業都市として発展し、重化学工業を中心に、日本の近代化・高度経済成長の
牽引役を果たしてきました。

当時、製鉄所から盛んに昇る煙は、「七色の煙」といわれ、繁栄のシンボルとして旧・八幡市の歌にもうたわれていたほどでした。
しかし、産業の繁栄は一方で激しい公害をもたらし、当然のことながら、「七色の煙」は大気を汚染し、
降下煤塵の害をもたらしました。1960年代、北九州地域の大気汚染は国内最悪を記録し、さらに洞海湾は工場排水により
「死の海」と化しました。

この公害問題に最初に気づいたのは、市民で、既に1950年ごろから、「家の中がザラつく」「洗濯物が汚れる」といった
声が寄せられました。戸畑地区の婦人会は自ら調査に立ち上がり、議会、行政、企業に対し、公害対策を働きかけてきました。
1965年戸畑婦人協議会が製作した記録映画「青空がほしい」は、公害対策を求める市民運動を象徴するものでした。
市民の声に押され、行政も動き出し、大気汚染等の測定により公害の実態を把握しました。行政指導、立ち入り検査等により
企業へ改善を働きかけました。そして、各工場と公害防止協定を締結し、市、県、当時の通産局等と市内の企業約30社からなる
大気汚染防止連絡協議会を設立しました。企業側も、公害防止施設を整備するとともに、生産プロセスの改善を進めてきました。

この間、1968年には大気汚染防止法、騒音規制法が施行され、翌年の1969年には日本で初めてスモッグ警報が発令されました。
1970年にはいわゆる「公害国会」で公害関係14法案が可決し、全国的に、公害問題への社会的関心が高まる中で、
北九州市では、官民あげた取り組みにより、急速に環境改善が進んでいきました。

こうして、1980年ごろには、「七色の煙」に覆われた街に青空がよみがえりました。また、大腸菌も棲めない「死の海」と
言われた洞海湾には100種類以上の魚介類が、生息するようになっています。

1985
年には経済協力開発機構(OECD)の環境白書で「灰色の街」から「緑の街」へ変貌を遂げた都市として紹介されました。
1987年には環境庁の「星空の街コンテスト」で、大気環境が良好な「星空の街」に選定されました。
 
これらの北九州市の取り組みは国際的にも高く評価されています。1990年には、国連環境計画(UNEP)の環境貢献を表彰する
「グローバル500賞」を日本の自治体としては初めて受賞しました。
1992年ブラジル・リオデジャネイロで開催された地球サミットでは、日本の自治体では唯一となる「国連地方自治体表彰」を
受けました。

更に、環境に対する取組が強化され、1993年にかん・びん分別収集を開始し、1998年には一般ごみ指定袋制度が開始されました。
北九州市ルネッサンス構想に基づく基盤整備が行われていた、新日鐵の遊休地・東田で、2001年に環境をテーマとする
「北九州博覧祭2001」が開催されました。そして、2003年に八幡東田グリーンビレッジ構想がスタートし、環境に対する取組が
更に進化していきました。

2008
年には前述のように、全国で13自治体が選ばれた「環境モデル都市」に認定され、2010年には「アジア低炭素化センター」
を開設し、2011年には「環境未来都市」や経済協力開発機構(OECD)からアジア初の「グリーン成長モデル都市」に
選定されました。
そして、日本の産業が始まった北九州市で、世界の低炭素化社会実現に向けた牽引役としての新たな挑戦が始まりました。

3
.未来に羽ばたく東田
日本の産業はここから始まり、そして未来のまちづくりもここから始まる!
 
1896年に国会で製鐵所設置が承認され、数ある候補地の中から八幡に決定されました。
そして、1901年に八幡東田の地で官営八幡製鐵所が産声を上げ、日本の本格的な産業の歴史の幕が開けました。

1972
年に東田第一高炉が休止するまでの東田地区はものづくりの中心地として貢献してきました。高度経済成長後、生産効率向上や物流革新のため、主要製鉄設備が海沿いの戸畑地区に新設され、この広大な120ヘクタールの場所が遊休地となりました。
新日鐵は北九州市ルネッサンス構想に基づく基盤整備に1994年に着手し、道路や電気、水道、ガスなどを整備して企業誘致の
基盤を整えました。その街づくりは「パークコンプレックスシティ構想」として、職・住・学・遊が融合した進化した
コンプレックスシティを目指して、情報産業を中心にした企業を集積するエリアやマンションなどの居住エリア、
商業施設エリア等、120ヘクタールの土地をゾーンに分けて、それぞれの目的に応じた街づくりに取り組みました。
ゾーンを決める際に新たに設置されたのが、新駅(スペースワールド駅)や都市高速道路などのアクセスはもちろん、
開発エリアと周辺街区との調和を考慮しました。例えば、両エリアを分断していたJR鹿児島本線の線路を移設・直線化し
物理的にも開かれた場所を生み出しました。

次の転機が、2001年の「北九州博覧祭2001」で、近代産業の発展と環境破壊と修復を経験した北九州市は「環境」博覧祭の
主要テーマに揚げました。それを機に東田地区の開発発展に「環境共生」を主要コンセプトにして、2003年に「世界の環境都市」
を目指す街づくりの基本構想となる「八幡東田グリーンビレッジ構想」が策定されました。
「環境共生と低炭素型都市を目指す」というコンセプトの下、産学官民で協働して行われました。

この取組を支えるのがエネルギーの地産地消で、隣接する製鐵所のエネルギー基盤を活用し、LNGによる電力供給をスタート
(東田コジェネ)、電力は東田地区で利用し、蒸気熱は製鐵所で再利用することで低炭素・効率的なエネルギー利用を実現しました。
また、日本初の試みとして、店舗・住宅・集客施設などにパイプラインを設置し、製鐵所で発生する水素を供給し、エコファーム用の
燃料として供給する他、燃料電池車の水素ステーションにも設置しました。

更に太陽光発電も将来的に設置し、電力・排熱・蒸気・水素などの様々な副産物の再利用を含め、
トータルマネージメントを発揮し、一般地域に比べて約30%のCO2削減を達成しています。

上述のような取組みも評価され、2008年には「環境モデル都市」に認定されました。
 
4. 北九州エコタウン
あらゆる廃棄物を他の産業分野の原料として活用し、
最終的に廃棄物ゼロ(ゼロ・エミッション)を目指したリサイクル事業等に取組む企業団地
 
北九州エコタウンは、北九州市が国の承認を受け進めている事業です。エコタウン事業に基づき若松区
響灘地区にリサイクル業を中心とした企業団地(総合環境コンビナート・響リサイクル団地)および企業や大学による実証研究
エリアからなります。

エコタウン事業とは、「あらゆる廃棄物を他の産業分野の原料として活用し、最終的に廃棄物をゼロに
すること(ゼロ・エミッション)」を目指し、資源循環型社会の構築を図る事業です。北九州エコタウンは1997年、
通商産業省より川崎市、長野県飯田市、岐阜県とともに第1号の承認を受けました。
 
●全国初のエコタウンセンター2001年6月オープン!
北九州市では、これからの「資源循環型社会」を目指して、リサイクル工場や研究施設などを集め、環境と調和したまちづくりを
行う「北九州エコタウン事業」に取り組んでいます。北九州市エコタウンセンターは、エコタウンを支える情報センターとしての
役割を担い、エコタウンでの取組みの紹介等を通じて、環境学習や交流活動に積極的に利用していただくための施設です。
全国各地から視察が相次ぐ中、リサイクル工場や研究施設の視察受付・案内を行っています。センター内では環境・リサイクルに
関する技術、製品の展示やパネルによる北九州エコタウン事業の紹介を行います。
また、環境学習、交流活動、研究活動に利用していただくための施設を提供しています。
 
 
5.環境教育
公害の街から真っ青な青空を取り戻し、環境モデル都市へと変貌した北九州の誇り
 
澄み切った青空、紺碧の海、そして美しい山や川。ごみが落ちていないきれいな街・北九州市。
それらが、環境モデル都市・北九州の誇りです。
かつて公害を経験した街が、環境モデル都市になったのは大きく分けて二つの要因があります。
◆環境技術の開発や環境設備の充実
◆市民の環境意識の高さ
 
この二つを支えている充実した環境教育の取組みを紹介します。市民の環境意識高揚のため、あらゆる年齢階層の市民の
ライフステージに応じた環境教育、環境学習を展開しています。

北九州市誕生の歴史

北九州市誕生の歴史
なぜこの地域に5つの市が誕生したのか?
なぜそれらが一つになり北九州市ができたのか?
その訳は古墳時代までさかのぼる。 

 

●古墳時代
北九州市は九州の最北端に位置し、海と山に囲まれ、河川の廻りに平野が広がり人類の
生活の場として適した場所であり、旧石器時代の遺跡が市内で45ヶ所で見つかっています。
(小倉南区27ヶ所、八幡西区9ヶ所、若松区3ヶ所、小倉北区と八幡東区で各2ヶ所)

このことが遠い昔から人々が生活の場としたことが分かります。
  

            篠崎八幡神社の境内で発見された篠崎古墳
 

●江戸時代
江戸時代に入ると、豊前の国と筑前の国の二つに分かれ、各国に多くのお城が作られる。
豊前が35城、筑前が15城と合わせて50の城が存在した。
このことは、人々が生活する最適の場所であり、本州と九州を結ぶ要の場所でもあったから
だといえる。 
  
     小倉城                 門司城跡              黒崎城跡
1615年の一国一城令以降は多くの城は壊され、豊前が小倉城、筑前が福岡城となった。
細川忠興が中津城から小倉城に移った理由は、小倉が地理的にも重要な位置に
あったからだと言える。又黒崎は長崎街道の筑前六宿最大の宿駅として繁栄する。
この時代に豊前と筑前を中心とするそれぞれの文化が各地域で育まれた。 

 

●明治に入って
明治に入り、1989年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布され、各地で合併が行われ新しい
村や町が出来る。
小倉町、門司村、田ノ浦村、小森江村、戸畑村、若松村、石峰村、江川村、洞北村、八幡村、
黒崎村、木屋瀬村
 他

 

●日本の産業近代化の始まり
1989年に、門司港が特別輸出港に指定され、日本の産業近代化の歴史が始まる。
1891年(明治24年)には九州鉄道(門司~高瀬間)が開通する。
1898年(明治31年)には石炭の積出港として若松港が開港し、1901年(明治34年)に
日本で初の銑鋼一貫製鉄所・官営八幡製鐵所が操業を開始する。
また門司では、鈴木商店が1904年(明治45年)に大里製糖所を開設し、それから様々な産業が
大里の地に生まれる。
又、黒崎や戸畑でも様々な産業が発祥する。
 

●5市の誕生
そんな産業発展に伴い、村が町に変わり、そしてそれから5つの市が生まれる。
この限られた地域で次々を市が誕生することは全国的にも非常にまれなことである。
【推 移】
・1899年(明治32年) 特別輸出港に指定された門司
・1900年(明治33年) 人口が最も多く、軍事都市としての役割を果たす小倉
・1914年(大正3年)  石炭の積出港として繁栄した若松
・1917年(大正6年)  製鉄所が誕生した八幡
・1924年(大正13年) 地場資本の安川家が若松から移った戸畑

 

●北九州市の誕生
それから5市が連接し一大都市圏を形成し、共通した交通インフラを持ちながらも、それぞれ異なった
都市構造や行政サービスとなっていた。

そのため各市の間は一体化して都市機能を有効に発揮し、一体感のあるまちをするべく、
1963年(昭和38年)に北九州市が誕生した。
  

北九州と言う言葉は、鉄道が門司から八幡までまたがっており、更に戸畑、黒崎、
折尾まで延びるにつれ空間的な呼び名が必要となり、応募により『北九州』となった。

 


 
●北九州市の魅力
自然豊かな山々と海の恵みを受けながら、太古の昔から人々が生活を営み、更に交通の要所でも
あるこの地に多くの人々が集まり、各地でそれぞれの文化が育まれて来た。
そして、日本の産業がこの地で始まり、多くの産業が生まれた。
その後、深刻な公害問題を経験し、現在では世界に羽ばたく環境未来都市となった北九州市。
また、製鉄関連の含む施設を明治日本の産業革命遺産として世界遺産となり、
多くの近代化産業遺産も点在する場所である。
弊社では、そんな北九州の魅力を紹介するツアーを提供しています。

 

 

門司の歴史を知れば、その魅力が見えてくる

門司の歴史を知れば、その魅力が見えてくる
 
1995年にオープンした門司レトロには、多くの人が訪れているが滞在時間が短く、宿泊する人も少ない。
また当時繁栄していた商店街や下町を訪れる人は少ない。

なぜだろう? 多分それは、観光客にとっては、単なるレトロ建物や町並としてしか
見えていないのではなかろうか?

  

 
そこで、関門海峡について、門司についての改めて考えてみました。
簡単な歴史を書いてみたら、その魅力が見えてきました。
 
人々が行き来する海峡は世界史の中でも重要な場所。
関門海峡は日本史の中で重要な場所。
昔から海峡の交通拠点として船で陸と陸をつなぎ、渡航のため足をとめ、海外の玄関口として栄え、
時には格好の砦となり闘争の場所にもなってきた。
  
明治に入り、近代化が始まり、港作りが始まった。1889年に門司港が開港し、石炭・米・麦・硫黄・麦粉の
特別輸出港に指定され貿易の起点となる。
1891年に九州鉄道の門司~遠賀が開通し、石炭の積出港となる。ごんぞうが活躍する。
富国強兵で多くの鉄が必要で、製鉄所建設の候補として最後まで残ったのが、呉と北九州の大里、
板櫃そして八幡。
鉄鉱石が近くで採れと説もあり大里が最有力候補だったが、広大な土地を提供することになった八幡の地に決定した。
  
製鉄所は建設されなかったが、戦争や国際貿易の重要な起点である門司港に、多くの銀行、会社が興され、支店が置かれ、工場が設けられわずか30年の間に急速な発展を成し遂げたまちは全国的にも珍しい。
そして長年の人々の念願だった関門鉄道トンネルが1942年。
戦争の為の重要な拠点であった門司だが、1944年の度重なる空襲や関門海峡に5000発近い感応機雷が
投下され爆撃された沈没船が多く、海峡は完全に封鎖され、5年間活動休止の状態だった。
そして、関門国道トンネルが1958年、関門橋が1973年に開通し、門司港の姿が大きく変わってきた。

そして、かつて貿易港として栄華を誇ったロマンの地・門司を1995年に観光地・門司港レトロとして
グランドオープンした。

  

 
世界的に見ても、海峡のまちはどこも魅力的で、それを語る歴史がある、そして物語がある。
関門海峡がある門司にも、歴史がある、物語がある、そして先人たちの人間ドラマがある。
この地には昔から多くの人々が住みつき、産業が発達したのも魅力的なまちだからである。
私が感じている門司の魅力をもっと多くの人に紹介したいと思います。

ユネスコが評価した世界遺産

 
ユネスコの世界遺産の評価
 
5月4日に世界遺産登録勧告があった、明治日本の産業革命遺産は以下のように評価されて
います。
 
明治後期、日本が20世紀初頭に非西洋地域で最初の産業国家としての地位を確立した。
そこに至るまでの幕末から僅か半世紀余での製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業における急速な
産業化を達成したのは、世界的意義を有すべきことである。
技術、産業、社会経済に関わる世界の歴史的発展段階において、極めて意義のある得筆すべき
類稀な事実である。
その道程を時間軸に沿って証言する産業群が、明治日本の産業革命遺産である。

九州・山口を中心に、全国8県11市に、地理的に分散しているが、推薦資産全体で世界遺産価値を有し、
一つの範囲で構成している。

  

 
幕末から明治後期にかけて、西欧諸国から科学技術の移転を受け、技術交流に対応し変化を遂げた
類稀は道程を証言する一連の遺産群である。
日本に西欧の産業革命が移植され、極めて短期間の間に、西欧の先端技術が理解され、
日本国内に適した技術を開発し、急速な産業化を成し遂げたことは産業化と技術の歴史において
地理的にも時代的にも極めて類稀なことである。
 
日本の文化的伝統を基礎として、急速な産業化を成就する過程で、日本独特の産業文化が形成、
発展し、急速な産業化に寄与したことを物語る物証である。
①「匠の技」や、幕藩の実業奨励の成果として継承された文化力が素地となって、日本独特の
ものづくり文化として発展した。
(産業化初期及び発展期の産業遺産群、八幡製鐵所、長崎造船所)
②萩は、幕末において、産業文化を形成した地域社会の姿を良く顕した物証である。

③江戸時代の武士階級の多くは明治維新と共に身分と帰属する組織を失い、新たな家を求めた。
明治新政府の官営事業、更には維新と共に興した民間企業は、武士道に依拠する精神をもって
工を興す哲学が組織の経営理念となった。

④八幡製鐵所や長崎造船所
江戸時代の文化的伝統である武士道精神が宿る組織では西洋科学に畏敬の念をもち、
技術を積極的に受容した。
技術の短を捨て、長を実践の応用において西洋科学技術を習得した。
また、受容した技術、組織に宿る暗黙知の伝統の中で、自分の家風に培養していく日本の
「産業技術文化」がものづくりの物的証拠として産業設備や経営環境に継承されている。
 
幕末、明治初期に急速に変化した時代を象徴する技術的集合体の卓越した例であり、
産業化の時間的・地域的枠組みにおいて普遍的な意義を持つ。
相互に連関する日本の急速な産業化を先導した重工業の遺産群を包含し、グローバルは技術移転に
力強い貢献をした証左である。
(幕末の反射炉や、集成館、橋野鉄鉱山、小菅修船跡、高島炭鉱等)
明治後期において、製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業のそれぞれの技術とその集合体を発展させ、
産業として形成し、産業国家の実現に貢献した重工業の重要拠点。
(八幡製鐵所、三菱重工 長崎造船所、三池炭鉱、三池港)

日本人が知らない日本人の凄さ!

日本人が知らない日本人の凄さ!
これが、日本の急速な産業発展の原点。
 
企業や団体が連携し、協同で一つのものを作り上げること。
 
日本人にとって、なんだか当たり前の事で、何を言っているんだと言わそうですね。
でも、外国人は、このことができない。
このことが出来るのは日本人だけなんです。

 
  

例えば、ものつくり会社と設備設計会社、コンピュータ会社やソフト会社が共同で新しい
設備をつくったりするのは日常茶飯事です。
また、素材製造会社と大学が協同で新らしい材料を開発するのも当たり前のこと。
 
餅は餅屋の精神で、皆が協力して一つのことをやるから、短期間で良いものが出来る。
 
個人主義の国々ではできないこと、このことができるのは、日本人だけ。
 
なぜこのことが出来るのかは、神道の精神かなって思っています。
 
このことは、長年海外のものづくりの現場で、欧米の会社とで戦っていた時に見えてきた事実です。

なぜ稼働中の設備が世界遺産に!

 
なぜ、稼働中の施設が世界遺産に登録されるのか。
 
今回の明治日本の産業革命遺産に八幡製鐵所と三菱重工の稼働中の施設が含まれる。
このことは非常に大きな意味がある。
今回の登録予定の資産は1850年代から1910年の間造られたものである。
もし、1910年以降から現在までに日本の産業が発達していなければ、今回の世界遺産はあり得ない。

それらの資産が出来た後、如何にして日本の産業が発達して行ったかが非常に重要である。

  

それを牽引したのが、製鉄・鉄鋼分野は八幡製鐵所、造船分野は三菱重工で、外国から導入した
技術を基に、独自で創意工夫をしていきながら今日の日本を作り上げてきた。
 
現在も稼働している資産を世界遺産にする理由は、単に遺産群が造られた時代のことだけを
伝えるのでなく、それ以降どのようにして日本が産業を発達させ、世界に追い付き、
今では世界をリードする工業国になったのかを伝えるためだと考える。
 
本当に今回の世界遺産は、全世界が注目している意義深いものだと思います。
 
【稼働中の資産】
・八幡製鐵所:旧本事務所、旧鍛冶工場、修繕工場、遠賀川水源地ポンプ室
・三菱重工:キャンチレバークレーン

日本の急速な産業発展の証明

急速な日本の産業発展を証明する、私自信が携わった仕事!

1901年創業の八幡製鐵所は、世界でトップクラスの技術を持つドイツのGHH社の
設計のもと建設され、操業指導を仰ぎながら日本の近代製鉄が産声を上げた。

 

しかし、短期間の内に日本の製鉄技術及び設備技術が急速に発達を成し遂げた。


そして、立上げ当初は先生であったGHHを始めとするヨーロッパメーカーと肩を
並べるようになり、その設備技術を基に私自身の海外での仕事が始まった。

製鉄技術の先進地域であるヨーロッパのメーカーを競争相手として、
色んな国々で仕事をしてきました。
1985年から会社を退職する2008年まで8ヶ国で仕事をさせてもらいました。

アルゼンチン、ブラジル、フィンランド、イタリア、南アフリカ、中国、韓国、アメリカ。

 

 
   アメリカ AK Steel No.4 高炉            南アフリカ ISCOR C高炉


写真は星条旗たなびく、アメリカのAK Steel No4高炉 と
当初先生のGHHに打ち勝ち受注した南アフリカのISCOR C高炉。
 
なぜここまで短期間の内に、先生であるヨーロッパメーカーに肩を並べ、追い抜き、
世界のトップに踊り出たのか。
 

この訳は、次回紹介します