世界遺産物語 第9話 / 官営製鐵所建設の背景 その1
全量を欧米から輸入していた。
一貫製鉄所建設が求められるようになった。
日本へ軌条の売込及び九州の石炭の買い付けに訪れた。
錬鉄は鋼に比べて、強度が低く、品質の均質性にも欠き、生産効率も低かった。
そこで、高強度、高品質の製品づくりが求められ、鋼を大量生産できる、製鋼設備を備えた
新しい一貫製鉄所の建設が必要であった。
参考)
当時の釜石製鐵所の鉄の年間の生産量は、1890年4,000トン、1891年は9,000トンであったが、
ちなみに若戸大橋の鉄の使用料28,000トンから比べても、非常に量的に少なかった。
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世界遺産物語 第10話 / 官営製鐵所建設の背景 その2
1853年のペリーが来航を機に、幕府は海防の必要性を認識し、大型船製造禁止令を
廃止した。
オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。
1879年には日本初の軍艦「清輝」が竣工した。
日清戦争と日露戦争で使用された。
そしてペリー来航を機に、西欧の技術書を元に各地で反射炉が建設されるが、造船用の鉄を
製造することはできなかった。
製鉄所ではなかった。
そのため、造船用の鋼材は全て外国からの輸入に頼らなければならなかった。
1896年に日清戦争で勝利したものの、その後の富国強兵のためには、独自の鉄(鋼)づくりが
必要で、新たな製鉄所建設が急務となった。
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世界遺産物語 第11話 / 「野呂景義」による幻の製鉄所設立計画
イギリスから技術を導入して1880年に操業を開始した官営釜石製鉄所だが、
外国人技師を始めとした技術者の経験不足と種々の技術上の問題によりわずか
2年間で 幕を閉じる。
挑戦が始まるが、根本的に造船やレール用の鋼を造れる製鉄所でなく生産量も低かった。
製鉄所建設計画を託した。
成功は失敗から学ぶことが野呂の技術者としての信念であった。
足掛け2年釜石に通い、導きだした失敗の原因として、 不十分な原料調査と全て海外技術に依存
したことと結論づけた。
野呂の新しい製鉄所建設構想は、始めに導入する技術は小さくてよい、外国技術を改良したり、
それぞれの長所を取り入れる力、いわば技術を生かす「技術力」を重視した
「製鉄所建設計画案」を提出した。
しかし、大型製鉄所を目指す政府方針に合わず、野呂の案は否決され失脚する。
など技術面で多大な貢献をしていく。
ここでは、上記の製鉄所建設計画(1891年)までの野呂景義の物語を紹介する。
1854年名古屋橦木町生まれ、東京大学に入学し、ドイツから招かれたCurt NETTO教授の
基で採鉱冶金学科を学び1882年に卒業し、やがて助教授になる。
1885年5月からヨーロッパに留学し、まずロンドン大学で機械工学と電気工学を学び、
1986年4月からドイツに転じ、もっぱらFreibergのLEDEBUR教授について鉄冶金学を修めた。
野呂は世界有数の鉄冶金学者であると同時に、生産現場での豊富な技術経験を積んだ
LEDEBUR教授から、日本の近代化についての重要なことを学んだ。
そして冶金学の立証する技術条件や経済条件との相関関係のうえに立地・設備計画を
決定すべき」であること。
1889年に帰国し、帝国大学工科大学の鉄冶金の教授に就任し、1891年には鉄冶金分野では
最初の工学博士を授与された。
ことになった。
その後の、物語は次回以降につづきます。
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世界遺産物語 第12話 / 官営製鐵所が八幡に決定
和田維四郎(わだ つなしろう)による、銑鋼一貫の巨大製鉄所構想であった。
初代長官の山内提雲の後任で、2代目の長官となった和田維四郎が、製鉄所創立の
中心的な役割を果たす。
和田維四郎 大島道太郎
技監は本来なら、日本で初めてコークス炉を使った製鉄法を成功させ、日清戦争前まで
「大島道太郎」を任命した。大島道太郎は、近代製鉄の父・大島高任の長男。
1)17の地域が候補地
2)現地調査の実施
①呉(広島県)②大里(門司)③板櫃(小倉)④八幡(八幡)
呉 板櫃 & 大里 八幡
3)大里が第一候補
出入りさせることができないと、一旦は「大里第一」とした。
八幡が足元に及ばない人口を抱えていた。
4)八幡の立地に向けての取組
起死回生の政治工作を行う。
を通じて、大島と長官山内堤雲の説得を依頼した。
鉄づくりは八幡から」と熱心に村民を説得し、100万m2もの広大な土地を地価の
半値で売り払うことに協力してもらった。


製鉄所建設前の八幡村
そして、1901年の創業に向けての建設工事が開始される。
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世界遺産物語 第13話 / わずか4年で田畑に製鉄所をつくった偉業
建設機械もない時代、熟練工もいない時代に、八幡村の田畑に製鉄所建設が決定されてから、
わずか4年間で、近代的な一貫製鉄所をつくった。
そして、近代国家をつくりたいという日本人が熱い想いが結集して苦難の突貫プロジェクトを
完遂させた。
技術者の実習受け入れについて、全計画をGHHに委託する契約を締結した。
鍛冶等の従来型の職人はいたが、洋式工事の技能熟練者は皆無に近かった。
が始まった。
1897年(明治30年)に工務部機械課を設置し、設備基本計画、機材発注及び
基礎工事を始める。
機械設計や熟練工は陸海軍工廠に要請し、派遣してもらった。
GHHに委託し、担当工事が竣工するまでドイツ人職工長が滞在した。
変形や形状の悪い煉瓦の手直しもしながら、苦労の多い仕事を行った。
尾倉鋳造が完成した。
また、建設中の1900年には、初代内閣総理大臣の伊藤博文を始め多くの関係者が訪れ
東田第一高炉の前で記念撮影を行った。


そして、1901年2月5日に東田第一高炉に火が入り、
11月18日に多くの来賓を迎えて作業開始式が行われ、官営八幡製鐵所が創業した。


混銑炉(160t)x2基
修繕工場、鍛冶工場、製罐工場、鋳造工場
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世界遺産物語 第1話 / 八幡製鐵所の苦難の船出
わずか4年で田畑につくり上げた製鉄所、1901年2月5日に東田第一高炉に火が入り、
我国初の近代製鐵所が操業を開始した。
原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、羽口の閉塞などで3日間休風
(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、銑鉄の
品質は概して粗悪であった。そしてついに1902年5月に休止した。
高炉や平炉の設計はGHH自体でなく、当時一人者とされていたン個人であり、自ら開発した
実績のない新しい設備が含まれていたのではないか。
安定操業できなかった要因であった。
野呂景義が急遽呼び出され、陣頭指揮をとる。

操業指導が必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
生産技術の実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な
限り改良がおこなわれた。
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける原動力と
なっている。


生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である
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世界遺産物語 第11話 / 堀川物語



江戸時代初め、遠賀川はいく度も洪水を起こし周囲の村々に大きな被害をもたらした。
このような状況下、筑前藩主黒田長政が、遠賀川の支流をつなぎ、洞海湾にその水を
灌ぐことで洪水や、干ばつの被害を防ぐ目的として堀川を建設することにした。



運ばれていた。
運搬されるようになる。



折尾が繁栄していく。明治に入り、堀川を通過する川ひらたの通過数も大幅に増え、
日本の産業近代化に大きく貢献してきた。
だんだん少なくなり、1932年(昭和12年)には175年に及ぶ長い期間貢献し続けてきた水運の
歴史が幕を閉じた。







完成から200年以上経過した堀川を、再度綺麗な水が流れる川に甦らせて、
宝川と呼べるようにしましょう!
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世界遺産物語 第10話 / 遠賀川水源地ポンプ室物語
ポンプ室建設の背景
官営八幡製鐵所が1901年(明治34年)に操業を開始した。
高見貯水池から行われていた。
大幅に高まった。そのため1906年に第一次拡張計画を策定し、年間の生産量を18万トンに
増やすために設備を拡張することになった。
遠賀川に求めた。


ポンプ室の建設が1906年から始まり1910年に完成した。
配管の総延長は12km、送水システムの設計は近代水道の父を呼ばれる
東京帝国大学教授の中島悦治氏によるもので、石炭ボイラーと蒸気ポンプは
イギリスから輸入した。
今は解体されている。
平屋建ての煉瓦造り、幅20mx長さ40m。
鉱滓を使った煉瓦)が使用されている。
毎日八幡製鐵所で必要とする水の約70%を休みなく送り続けている製鐵所の心臓部である。


このことはまさに世界遺産に登録された明治日本の産業革命遺産を代表していると
いっても過言ではない。
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世界遺産物語 第9話 / 終戦までの苦難の歴史
1937年(昭和12年)に勃発した日支事変が長期化するころ、資源の供給力に乏しい
日本の経済は既に行き詰まり状態になっていた。
このような状況下で、1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃を行い、
太平洋戦争が始まった。
そして1942年(昭和17年)ミッドウェー海戦における敗北を境に戦局が悪化すると、
船舶の損傷によって南方資源の輸送力が激減し、国内では統制の対象となるべき
物資そのものが枯渇し始めた。
南方からの鉱石資源も途絶えた。
今まで有事に備えて備蓄してきた屑鉄や鉱石と、国内資源に頼りながら、
操業をづけることになる。しかし、備蓄資源もだんだん底を着き始め、屑鉄を一般回収する
措置もとられた。
輸入が途絶え、高炉操業の継続が困難になり、国内で11基の高炉が休止し、
唯一操業を続けたのが八幡にある、東田第2高炉、東田第4高炉と洞岡第4高炉の
3基だけであった。
経験し、戦争と向かい合わせで発展してきた日本。
崩壊の一途を辿って終戦を迎える。
・6月16日:北九州地区空襲 (下関、門司、小倉、戸畑、八幡) 日本全土の空襲が始まる

北九州地区空襲
・8月29日:八幡空襲 八幡製鐵所の設備が大打撃を受ける
・3月27日〜7月11日:関門海峡に5000個もの機雷を投下
・6月19日〜20日:福岡大空襲 約1,000人犠牲
・6月29日、7月2日:下関・門司大空襲 約18,000人犠牲
・8月 6日:広島原爆 約123,000人犠牲 (ウラン型爆弾)
・8月 8日:八幡大空襲 約2,500人犠牲
・8月 9日:長崎原爆 約73,000人犠牲(プルトニューム型爆弾)
・8月15日:終戦


八幡製鐵所 住宅地
立ち上がり、自ら筑豊炭鉱や北松炭田に行き、自らの手で石炭を掘り、首の皮一枚だけ
繋がっていた日本の経済活動を維持していき、今日の豊かな日本につなげた。
被害が正確に測定できる半径5Km以上の市街地で軍事工場があるところを選んだ。



煙幕の様子(訓練) 11:02 長崎原爆投下 投下地点
前日の八幡大空襲の煙と煙幕を上げたことにより、投下目標地が確認できず、
長崎に変更、11時2分に松山上空で投下され、7万人以上もの尊い命が奪われた。
被爆から5年後に43歳の若さで亡くなった「永井隆教授」のメッセージを全世界に発信します。


平和記念像 永井隆教授
The person who prays for peace must not hide even needle, for a person
possesses weapon is not qualify to pray peace.
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堀 川
人々の長年の願い
180年の歳月をかけて作った堀川
遠賀川周辺の洪水対策から始まり
日本の産業近代化の大きく貢献した人工河川!
江戸時代初め、遠賀川はいく度も洪水を起こし周囲の村々に大きな被害をもたらした。
このような状況下、筑前藩主黒田長政が、遠賀川筋の中間から洞海湾に人口運河である
堀川通すことにした。
1621年に着工し、いく度の中断も含めて180年もの長い年月をかけて完成した。
その後、明治時代に入って、筑豊から石炭を運ぶ水路として使用され、
日本の産業近代化に大きく貢献した。
●堀川のルート
八幡西区楠橋の寿命(じめ)から始まり、中間、水巻そして折尾を通って洞海湾に通じる。
上流から洞海湾までのルートに沿って写真を示します。
遠賀川から分岐 八幡西区楠橋
寿命(じめ)の唐戸 (水門)
世界遺産候補の遠賀川水源地ポンプしての近くを通る
中間の唐戸 (水門)
河守神社前の様子
車返しの切り通し
JR折尾駅付近の様子
新々堀川 (折尾駅付近から洞海湾へ)
洞海湾
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