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Kyushu Travel Guide

世界遺産物語 第10話 / 官営製鐵所建設の背景 その2

 
ペリー来航後の時代の変化

1853年のペリーが来航を機に、幕府は海防の必要性を認識し、大型船製造禁止令を

廃止した。

その後各地で西洋式の海軍が設置され、時代が大きく変わり始める。
 
軍事ために始まった船造り
海軍士官養成のため、1855年に長崎海軍伝習所が設立され、幕臣や雄藩藩士から選抜して、
オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。 
その後各地で造船所が建設される。
1856年に萩藩で恵美須ヶ鼻造船所を建設し、日本初の洋艦を完成させた。
1857年には長崎製鐵所(造船所)が建設を開始し、1861年に創業した。
1858年には佐賀藩も三重津造船所が建設した。
江戸幕府は1865年に横須賀製鉄所(造船所)の建設を開始し、1871年に第一号ドックを完成させ、
1879年には日本初の軍艦「清輝」が竣工した。
神戸では民間で初めて、1878年に小野浜造船所を設立し、1885年には初代「大和」が進水し
日清戦争と日露戦争で使用された。
そして横須賀、呉、佐世保に鎮守所(海軍の基地)が設置され、その後海軍工廠へと移って行く。
ペリー来航以降、海防が軍事に向かって進んだような歴史をなっている。
 
造船用の鉄はどこで調達したのか 
江戸時代の日本では、農機具、鉄器や刀などの鉄づくりは、古来の「たたら製鉄」で行っていた。
そしてペリー来航を機に、西欧の技術書を元に各地で反射炉が建設されるが、造船用の鉄を
製造することはできなかった。
そして、1880年には官営釜石製鉄所が操業を開始するが、造船用の鉄(鋼)が製造できる
製鉄所ではなかった。
そのため、造船用の鋼材は全て外国からの輸入に頼らなければならなかった。

1896年に日清戦争で勝利したものの、その後の富国強兵のためには、独自の鉄(鋼)づくりが
必要で、新たな製鉄所建設が急務となった。

 

 


 

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世界遺産物語 第11話 / 「野呂景義」による幻の製鉄所設立計画

 
新製鉄所建設の背景

イギリスから技術を導入して1880年に操業を開始した官営釜石製鉄所だが、
外国人技師を始めとした技術者の経験不足と種々の技術上の問題によりわずか

2年間で 幕を閉じる。

その後1884年に田中長兵衛が製鉄所の一部設備の払下げを受け、製鉄事業への
挑戦が始まるが、根本的に造船やレール用の鋼を造れる製鉄所でなく生産量も低かった。
 
早急な製鉄所建設計画と野呂景義の対応
1891年に政府は軍事拡張のために一刻も早く製鉄所建設を実現すべく、野呂景義
製鉄所建設計画を託した。
 

 

しかし野呂は、そうした性急な方針に反対であった。

「新しい製鉄所を立ち上げるには、釜石製鉄所の失敗の原因を徹底的に調査する必要がある」

成功は失敗から学ぶことが野呂の技術者としての信念であった。

足掛け2年釜石に通い、導きだした失敗の原因として、 不十分な原料調査と全て海外技術に依存

したことと結論づけた。

野呂の新しい製鉄所建設構想は、始めに導入する技術は小さくてよい、外国技術を改良したり、
それぞれの長所を取り入れる力、いわば技術を生かす「技術力」を重視した
「製鉄所建設計画案」を提出した。

 

しかし、大型製鉄所を目指す政府方針に合わず、野呂の案は否決され失脚する

その後の製鉄所建設は和田維四郎を中心に行われる。
 
野呂景義ものがたり 
失脚した野呂景義は、釜石の田中鉱山製鉄所で日本初のコークス炉を使った製鉄に成功する
など技術面で多大な貢献をしていく。
最終的には、八幡製鉄所の立上げに大きく貢献し、近代鉄鋼技術の父を呼ばれている。
 

ここでは、上記の製鉄所建設計画(1891年)までの野呂景義の物語を紹介する。

1854年名古屋橦木町生まれ、東京大学に入学し、ドイツから招かれたCurt NETTO教授の
基で採鉱冶金学科を学び1882年に卒業し、やがて助教授になる。

1885年5月からヨーロッパに留学し、まずロンドン大学で機械工学と電気工学を学び、
1986年4月からドイツに転じ、もっぱらFreibergのLEDEBUR教授について鉄冶金学を修めた。

野呂は世界有数の鉄冶金学者であると同時に、生産現場での豊富な技術経験を積んだ
LEDEBUR教授から、日本の近代化についての重要なことを学んだ。

 
それは、「伝統技術のよった風土の条件を考慮することが大切であること、
そして冶金学の立証する技術条件や経済条件との相関関係のうえに立地・設備計画を
決定すべき」
であること。
 

1889年に帰国し、帝国大学工科大学の鉄冶金の教授に就任し、1891年には鉄冶金分野では
最初の工学博士を授与された。

そして同年、政府の依頼によって製鉄所建設計画案を提案提示したが、否決され失脚する
ことになった。
 

その後の、物語は次回以降につづきます。

 

 


 

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世界遺産物語 第12話 / 官営製鐵所が八幡に決定

 
製鉄所建設計画
日清戦争後、軍備増強と産業資材用鉄鋼生産の増大を図るため、1896年(明治29年)に
第9回帝国議会で製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
その内容は日清戦争前に「野呂景義」が提案した製鐵所建設構想と異なり、
和田維四郎(わだ つなしろう)による、銑鋼一貫の巨大製鉄所構想であった。

初代長官の山内提雲の後任で、2代目の長官となった和田維四郎が、製鉄所創立の
中心的な役割を果たす。

 

   
     和田維四郎  大島道太郎


技監は本来なら、日本で初めてコークス炉を使った製鉄法を成功させ、日清戦争前まで
製鉄所建設構想を作り上げた「野呂景義」が考えられるが、初代長官の山内が、
大島道太郎」を任命した。大島道太郎は、近代製鉄の父・大島高任の長男。
総予算額650万円、その中に清国から受け取った賠償金のうち58万円が含まれる
 
製鉄所建設地の検討 
 
 1)17の地域が候補地
1896年に政府によって17の地域が候補地として選ばれた。その中の3地域が北九州。
青森 釜石 塩釜 千葉 品川 鶴見 静岡 和歌山 梅田 尾道
呉 大竹 大牟田 長崎 大里(門司) ⑯板櫃(小倉) 八幡(八幡)
各候補地とも郷土に近代的な製鉄所をと意気込み誘致活動を展開し、
お互いに一歩もゆずらなかった。

 2)
現地調査の実施
大島道太郎が候補地決定の責任者となり、調査団を率いて候補地を調査した。
その立地の条件は、①広大な建設用地が安価で得られる ②海上・陸上の交通の便がよい
② 原料と燃料が得やすいことが考慮された。
調査の結果、4ヶ所に絞られる。

(広島県)大里(門司)板櫃(小倉)八幡(八幡)

 

    
        呉         板櫃 & 大里       八幡

 
原料と燃料入手の点で呉は落ちて、北九州の三村が残る。
 
 3)大里が第一候補
その中で、大島は、石炭に入手には洞海湾(八幡)だが、若松港の水深が浅く到底大型船を
出入りさせることができないと、一旦は「大里第一」とした。
大里は、筑豊炭田を背後に持ち、アシが生い茂る湿地帯が多い土地、海陸の交通条件に優れ、
八幡が足元に及ばない人口を抱えていた。
更に、江戸時代に村の一角から鉄鉱石と銅鉱石が採掘されていたことも影響している。

 4)八幡の立地に向けての取組
これに対して、若松築港会社会長の安川敬一郎は、水深を深くすれば大里に勝ると確信し、
起死回生の政治工作を行う。
旧黒田藩主・金子堅太郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一の同意を得、渋沢栄一と後の長官和田維四郎
を通じて、大島と長官山内堤雲の説得を依頼した。

こうした安川敬一郎の運動が紅を奏し、用地買収担当の製鉄所事務次官に八幡出張の
辞令が出された。

 

  
  安川敬一郎      芳賀種義

 
当時の八幡村は、人口2,000人足らずの農業と漁業を営む寒村であった。
製鉄所建設用地確保のため、八幡村の芳賀種義村長「八幡村に製鉄所を、日本の
鉄づくりは八幡から」
と熱心に村民を説得し、100万m2もの広大な土地を地価の
半値で売り払うことに協力してもらった。
 
官営製鐵所が八幡に決定
こうした後、1897年2月6日「官営製鉄所は福岡県 下筑前国遠賀郡 八幡村に置く」
と公布された。

             製鉄所建設前の八幡村

 

そして、1901年の創業に向けての建設工事が開始される。

 

 


 

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世界遺産物語 第13話 / わずか4年で田畑に製鉄所をつくった偉業

 

建設機械もない時代、熟練工もいない時代に、八幡村の田畑に製鉄所建設が決定されてから、
わずか4年間で、近代的な一貫製鉄所をつくった。
そして、近代国家をつくりたいという日本人が熱い想いが結集して苦難の突貫プロジェクトを
完遂させた。

 

 
どこから技術を導入するか
製鐵所建設に際しては、海外の技術を導入することが決定され、1897年(明治30年)に
大島道太郎を中心とする調査団の海外派遣が行われた。
アメリカ、フランス、ベルギーを経てドイツに渡った。
そして、日本が求めている多品種の鉄鋼製品をつくっているドイツのGHH製鉄所を実地調査し、
一貫製鉄所の建設エンジニアリング、機械、資材の供給、指導技師や職工長の派遣、
技術者の実習受け入れについて、全計画をGHHに委託する契約を締結した。
 
日本人の熱い想いが成し遂げたプロジェクト
当時は設備関連の技術蓄積もほとんどなく、職工も素人が多く棟梁、左官、石工、
鍛冶等の従来型の職人はいたが、洋式工事の技能熟練者は皆無に近かった。
そのため、ドイツ人技師を雇い入れて指導を仰ぎ、八幡村の農地に製鉄所建設工事
が始まった。
 

  

 

1897年(明治30年)に工務部機械課を設置し、設備基本計画、機材発注及び
基礎工事を始める。
機械設計や熟練工は陸海軍工廠に要請し、派遣してもらった。

1898年(明治31年)には、高炉関連設備の調達を始める。
高炉、捲揚設備、熱風炉、送風機設備、その他起重機や耐火煉瓦の設計、製作は
GHHに委託し、担当工事が竣工するまでドイツ人職工長が滞在した。
1899年(明治32年)には、GHHからの資材が到着し設備の据付工事が開始された。
わずかな指導者の元で多くの素人工を率いて、ドイツからの輸送中に生じた鉄骨の
変形や
形状の悪い煉瓦の手直しもしながら、苦労の多い仕事を行った。
この年に本事務所(世界遺産)が完成した。
1900年(明治33年)に修繕工場(世界遺産)鍛冶工場(世界遺産)、堂山製罐及び
尾倉鋳造が完成した。

また、建設中の1900年には、初代内閣総理大臣の伊藤博文を始め多くの関係者が訪れ
東田第一高炉の前で記念撮影を行った。
 
   

そして、1901年2月5日東田第一高炉に火が入り
11月18日に多くの来賓を迎えて作業開始式が行われ、官営八幡製鐵所が創業した。
 
操業当初の設備仕様
 
  
 
①製銑設備 
 高炉(160t/日)x2基、コッパー式コークス炉 200窯  
②製鋼設備
 ベッセマー転炉(10t)x2基、シーメンスマルチン炉x4基、ガス発生炉x12基
 混銑炉(160t)x2基
③圧延機
 分塊圧延、軌条圧延、大形鉄圧延、中形鉄圧延、小形鉄圧延、薄板鉄圧延
 中板、大板圧延、鍛熱炉(均熱炉、加熱炉)x22基
④工作工場

 修繕工場、鍛冶工場、製罐工場、鋳造工場

 

 

 


 

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世界遺産物語 第1話 / 八幡製鐵所の苦難の船出

 

わずか4年で田畑につくり上げた製鉄所、1901年2月5日に東田第一高炉に火が入り、
我国初の近代製鐵所が操業を開始した。

 

  

 
けど操業当初から計画通り生産できずトラブルの連続、ドイツ人も対策を
講じることができなかった。
 
惨憺たる操業開始時の状況
1901年2月、ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始。
しかし、その滑り出しは惨憺たる状況であった。 火入れの翌日1.2トン出銑したが、
原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、羽口の閉塞などで3日間休風
(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
その後対策を行って、操業を進めるもきわめて不良、予定出銑量160トン/日に対して、
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、銑鉄の
品質は概して粗悪であった。そしてついに1902年5月に休止した。
 
問題の大きな要因
技術導入したGHHはドイツの中堅鉄鋼会社であり機械製作会社であった。最も重要な設備である
高炉や平炉の
設計はGHH自体でなく、当時一人者とされていたン個人であり、自ら開発した
実績のない新しい設備が含まれていたのではないか。
そして、わが国の石炭性状に対する知識や認識が甘く、それが設備に反映されてなかったことが
安定操業できなかった要因であった。
そのため、日本の原料事情考慮し、日本人自らの手で問題解決する早急に必要があった。
 
野呂景義による原因究明と対策
日清戦争前に製鉄所建設構想をつくり、我が国初のコークスによる高炉操業を成功させた
野呂景義が急遽呼び出され、陣頭指揮をとる。


 
①原因の徹底究明
野呂の門下生である製銑部長服部斬が記した操業記録と現場を業徹底的に調査した。
その結果、高炉の構造、高炉装入物の配合、炉内における装入物の溶結、数度に及んだ
送風停止が原因であると指摘した。
結局、操業不調の主な要因は、炉床の冷え込みと使用するコークスの品質に起因することは
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。
 
②抜本的な設備改善と新しい技術の導入
炉圧に対してあまりにも大きい炉床と、炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の
改善を行った。コークス製造において、「二瀬炭に無煙炭もしくは三池炭を配合して、
堅質で大塊のものを製造」という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術や
コークス炉の改良が相まって積極的な改善が進められた。
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と
操業指導が必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
このように、我が国の自然的諸条件を軽視又は無視した技術の在り方が批判され、
生産技術の実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な
限り改良がおこなわれた。
 
一方、高炉で生産された銑鉄を精錬する製鋼部門でも、高炉と同じような欠陥があり、
その分野でも抜本的な改善がなされた。
 
●再火入れ
1903年7月23日に再度火入れされ、以後操業は快調で1910年6月2日まで連続稼働し、
2140日に亘って出銑を続けた。
 
●八幡製鐵所創業の意義
人々の汗と努力が実を結び、鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける原動力と
なっている。

 


生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である

 

 

 


 

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世界遺産物語 第11話 / 堀川物語

 
 
長年の人々の願い、多くの人々の尽力によってつくり上げた堀川・宝川 
 
堀川とは、遠賀川と洞海湾を結んだ人口の河、そのルートは遠賀川から
八幡西区・楠橋、中間市、水巻町そして八幡西区・折尾を経由して
洞海湾洞海湾に繋がる、堀川の全長は12.1Km。

   
 

江戸時代初め、遠賀川はいく度も洪水を起こし周囲の村々に大きな被害をもたらした。
このような状況下、筑前藩主黒田長政が、遠賀川の支流をつなぎ、洞海湾にその水を
灌ぐことで洪水や、干ばつの被害を防ぐ目的として堀川を建設することにした

1621年に着工し、建設中には幾多の困難に直面し、途中で工事の中断もあるが、

   
 
多くの人々の知恵と汗の結晶で183年もの歳月をかけて1804年に完成した。
そして、人々が安心して生活を営める環境が整い、堀川は宝川と呼ばれるようになった。
 
当時筑豊炭鉱で産出された石炭は、遠賀川から芦屋又は江川経由で全国に
運ばれていた。
堀川が完成後は川ひらたを使い堀川を経由して若松に運び、そこから全国に
運搬されるようになる。

   
 
1842年には堀川を通過した川ひらたの数が1万隻になり、経由地の中間、水巻、
折尾が繁栄していく。
明治に入り、堀川を通過する川ひらたの通過数も大幅に増え、
日本の産業近代化に大きく貢献してきた。
 
しかし、1891年に直方と若松を結ぶ筑豊興業鉄道が開通してから、堀川経由で運ぶ石炭の量が
だんだん少なくなり、1932年(昭和12年)には175年に及ぶ長い期間貢献し続けてきた水運の
歴史が幕を閉じた。

     
 
水運の役目を終えた後も、水田用に用いられていたが、鉱害により河川の地盤沈下や
微粉炭が堀川に流れ込んだため、水田の用水確保が困難になり、1972年にはパイプに
よって水田に給水するようになった。
 
      
 
また、堀川建設時には、堀川と遠賀川支流が交差する部分に伏越(逆サイフォンの
原理を使った川の交差点)を設けたが、洪水対策を目的として、1986年(昭和61年)に
曲川の伏越が撤去され、翌年には堀川が鉄板で塞がれ、遠賀川は途中で寸断された形をなり、
遠賀川の水が洞海湾に流れないようになった。
  
   
 

完成から200年以上経過した堀川を、再度綺麗な水が流れる川に甦らせて、

宝川と呼べるようにしましょう!

 

世界遺産物語 第10話 / 遠賀川水源地ポンプ室物語


ポンプ室建設の背景
官営八幡製鐵所が1901年(明治34年)に操業を開始した。
操業当初の鉄の年間の生産量は9万で、鉄づくりに必要な水の供給は構内に造られた
高見貯水池から行われていた。
その後、1904年に日露戦争が勃発し、兵器や弾薬の生産のため鉄の需要が26万トンと
大幅に高まった。そのため1906年に第一次拡張計画を策定し、年間の生産量を18万トンに
増やすために設備を拡張することになった。
鉄づくりには大量の水を必要とし、高見貯水池では対応できないため、新たな水源を
遠賀川に求めた。

  
 
そしてポンプ室を八幡製鐵所から最も近い中間市に設け、配管を使って
送水するようにした。
 
ポンプ室の建設
ポンプ室の建設が1906年から始まり1910年に完成した。

配管の総延長は12km、送水システムの設計は近代水道の父を呼ばれる

東京帝国大学教授の中島悦治氏によるもので、石炭ボイラーと蒸気ポンプは

イギリスから輸入した。

 

 

 
当初は筑豊の石炭を燃焼させて蒸気をつくっていたため、煙突も設けられていたが、
今は解体されている。
また、敷地内には筑豊から輸送してきた石炭の卸場やトロッコ列車の跡も見つかっている。
ポンプ室の建屋は、奈良国立博物館の設計も行った舟橋喜一氏によるもので、
平屋建ての煉瓦造り、幅20mx長さ40m。
赤煉瓦と一部コーナーの柱には黒田泰造が開発した鉱滓煉瓦(鉄づくりの時の副産物である
鉱滓を使った煉瓦)が使用されている。
大正期には約50名の従業員が働き、ポンプ室の周りに官舎も建てられていた。
 
1950年(昭和25年)には、電動モーターを使ったポンプに取り換えられ現在に至っている。
そして操業開始から100年以上経過した今でも、当時と変わらぬ威厳のある姿のポンプ室から、
毎日八幡製鐵所で必要とする水の約70%を休みなく送り続けている製鐵所の心臓部である。

 
 

このことはまさに世界遺産に登録された明治日本の産業革命遺産を代表していると
いっても過言ではない

 

 
 

世界遺産物語 第9話 / 終戦までの苦難の歴史

   
1937年(昭和12年)に勃発した日支事変が長期化するころ、資源の供給力に乏しい
日本の経済は既に行き詰まり状態になっていた。
このような状況下で、1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃を行い、
太平洋戦争が始まった。
そして1942年(昭和17年)ミッドウェー海戦における敗北を境に戦局が悪化すると、
船舶の損傷によって南方資源の輸送力が激減し、国内では統制の対象となるべき
物資そのものが枯渇し始めた。
 ●太平洋戦争下の八幡製鐵所
海外からの資源に依存するわが国の鉄鋼業は重大な危機に直面する。
太平洋戦争開戦により、アメリカによる屑鉄禁輸出措置がとられ、ミッドウェー海戦によって
南方からの鉱石資源も途絶えた。
今まで有事に備えて備蓄してきた屑鉄や鉱石と、国内資源に頼りながら、
操業をづけることになる。しかし、備蓄資源もだんだん底を着き始め、屑鉄を一般回収する
措置もとられた。
 
  
   東田地区高炉群          洞岡地区高炉群
 
1944年(昭和19年)には、唯一の輸入先である中国からの鉱石や良質の強粘結石炭の
輸入が途絶え、高炉操業の継続が困難になり、国内で11基の高炉が休止し、
唯一操業を続けたのが八幡にある、東田第2高炉、東田第4高炉と洞岡第4高炉の
3基だけであった。
 
日本の戦争終焉まで
日清戦争後に製鐵所を建設し、そして日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日支事変を
経験し、戦争と向かい合わせで発展してきた日本。
しかし、太平洋戦争開戦時は既に行き詰まり状態の日本、1944年(昭和19年)から
崩壊の一途を辿って終戦を迎える。
 
●1944年(昭和19年)
6月16日:北九州地区空襲 (下関、門司、小倉、戸畑、八幡) 
日本全土の空襲が始まる


    北九州地区空襲

・8月29日:八幡空襲 八幡製鐵所の設備が大打撃を受ける 
 
●1945年(昭和20)年
・3月27日〜7月11日:関門海峡に5000個もの機雷を投下
・6月19日〜20日:福岡大空襲 約1,000人犠牲
・6月29日、7月2日:下関・門司大空襲 約18,000人犠牲
8月 6日:広島原爆 約123,000人犠牲 (ウラン型爆弾)
8月 8日:八幡大空襲 約2,500人犠牲
8月 9日:長崎原爆 約73,000人犠牲(プルトニューム型爆弾)
・8月15日:終戦
 
 ●原爆投下後の八幡製鐵所
1945年に8月8日の八幡大空襲で、八幡製鐵所も殆どの設備が壊滅状態だった。
しかし、高炉と最低限鉄を生産する設備は修復すれば使える状態であった。
終戦当時、唯一残った高炉は八幡製鐵所の3基だけであった。

 
       八幡製鐵所        住宅地
 
しかし、原料炭を供給する筑豊炭鉱や北松炭田も戦争の被害で操業停止の状態に陥った。
製鐵所の操業を維持することが戦後復興の重要な使命であり、八幡製鐵所の社員が
立ち上がり、自ら筑豊炭鉱や北松炭田に行き、自らの手で石炭を掘り、首の皮一枚だけ
繋がっていた日本の経済活動を維持していき、今日の豊かな日本につなげた。
 
なぜ長崎に原爆が投下されたのか
なぜ小倉(北九州)に原爆が投下されなかったのか?それは、北九州という括りでなく、
各旧5市単位で戦闘計画を立てことも考えられる。
アメリカ軍は空襲と原爆の場所を入念に検討し計画した。原爆の場所決定に際しては、
被害が正確に測定できる半径5Km以上の市街地で軍事工場があるところを選んだ。
最終的に決まった場所が、広島市、小倉市、長崎市、新潟市。
当時、北九州市は存在しなかったため、八幡、門司、戸畑、若松は別の地域として扱っていた。
従って、小倉の隣にある八幡市は、空襲の標的とされ、8月8日に八幡大空襲に見舞われ、
2500人以上が亡くなった。

     
  煙幕の様子(訓練)  11:02 長崎原爆投下      投下地点
 
そして、運命の8月9日、原爆を搭載したB29が小倉市上空に差しかかるも、
前日の八幡大空襲の煙と煙幕を上げたことにより、投下目標地が確認できず、
長崎に変更、11時2分に松山上空で投下され、7万人以上もの尊い命が奪われた。
   
広島と長崎に投下された爆弾の種類はウランとプルトニュームを異なる。
このことは、明らかに原爆の威力を確認するための実験であった。
 
永井隆教授のメッセージ (長崎医科大学)
自ら長崎原爆に被爆しながらも、多くの被爆者を救済しながら世界平和を訴え続け、
被爆から5年後に43歳の若さで亡くなった「永井隆教授」のメッセージを全世界に発信します。

  
  平和記念像       永井隆教授
 
たとえ針でも隠し持っているものは世界平和を祈る資格がない。
 
Message from Dr. Nagai

The person who prays for peace must not hide even needle, for a person 
possesses weapon is not qualify to pray peace.

 

 

 


 

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堀 川

 

人々の長年の願い 
 180年の歳月をかけて作った堀川
 

遠賀川周辺の洪水対策から始まり
 日本の産業近代化の大きく貢献した人工河川!
 

 

江戸時代初め、遠賀川はいく度も洪水を起こし周囲の村々に大きな被害をもたらした。
このような状況下、筑前藩主黒田長政が、遠賀川筋の中間から洞海湾に人口運河である
堀川通すことにした。

 

  

 

1621年に着工し、いく度の中断も含めて180年もの長い年月をかけて完成した。
その後、明治時代に入って、筑豊から石炭を運ぶ水路として使用され、

日本の産業近代化に大きく貢献した。

 


 

●堀川のルート
八幡西区楠橋の寿命(じめ)から始まり、中間、水巻そして折尾を通って洞海湾に通じる。
上流から洞海湾までのルートに沿って写真を示します。

遠賀川から分岐 八幡西区楠橋

 

 

寿命(じめ)の唐戸 (水門)

 

世界遺産候補の遠賀川水源地ポンプしての近くを通る

 

中間の唐戸 (水門)

 

              河守神社前の様子

 

車返しの切り通し

 

JR折尾駅付近の様子

 

新々堀川 (折尾駅付近から洞海湾へ)

 

 洞海湾

 


      若松港               ごんぞう小屋

 

 


 

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世界遺産物語 第8話 / 満州事変と洞岡地区の拡張

世界遺産物語 第8話 / 満州事変と洞岡地区の拡張
   海に築く製鉄所の先駆け
第一次世界大戦後、アメリカも1929年にウォール街の株式暴落で恐慌が起こり、
それが世界中に波及していった。日本では1930年(昭和5年)に昭和恐慌が起き、
国際的緊張に対応するために軍事力強化を図る。
そして、1931年に勃発した満州事変は日本の産業に大きな意味を持つ。
鉄鋼原料と製品市場確保のために軍事力により中国・満州に踏み込んだものであり、
膨大な軍事を通じて、重化学工業及び関連産業の発展を促進した。
一方、金本位制の停止が赤字公債の発行による財政支出の増大によって、
産業活動を刺激する道を開いた。
 
洞岡地区の拡張
洞岡地区(葛島と東田地区の間の海)は、高炉で発生した鉱滓の捨て場として、
1918年(大正7年)頃
から埋め立てが開始された。
 
                  埋立の様子(奥は東田地区)
当初は、有事の際の原料や鉱石を2~3年分確保する用地づくりが目的であった。
しかし、八幡地区は拡張の余地がなくなったため、この場所に新しい工場が次々と建設される。
 
海に築く製鉄所の先駆け (1930年1938年)
洞岡は日本鉄鋼業の立地の特徴である「海に築く製鉄所」の先駆けとなった。
東田地区はドイツ式のレイアウトでつくったもので、陸上輸送による内地原料を主眼とし、
製品の運搬に自然への勾配を利用する目的で、製鐵所の一番高い海抜15mの土地に
高炉を建設した。
しかし、原料の大部分は海外から船舶で輸入しており、汽車や索道による構内運搬費が
かさんでいた。
大きなコストダウンを図る目的で海岸に高炉とコークス炉を建設した。
  
         4基の高炉群                            現在の様子

・1930年:洞岡第一高炉火入れ、洞岡コークス炉操業開始
・1933年:洞岡第二高炉火入れ
・1937年:洞岡第三高炉火入れ
・1938年:洞岡第四高炉火入れ、洞岡第五コークス炉作業開始


ー世界遺産物語の目次ー
第一篇 古来の鉄づくりから官営八幡製鐵所創業までの歩み
・第1話 日本最古の鉄器は糸島で出土
・第2話  種子島に鉄砲伝来
・第3話 江戸幕府の政権安定策と鉄づくり
・第4話 幕末の日本に変化が起きる
・第5話 日本の産業革命の始まり 
・第6話 反射炉で始まった日本の鉄づくり
・第7話 釜石で始まった洋式高炉による鉄づくり

・第8話 釜石から八幡へ
・第9話 官営製鐵所建設の背景 その1 
・第10話 
官営製鐵所建設の背景 その2
・第11話 野呂景義による幻の製鉄所建設計画 
・第12話 
営製鐵所建設地が八幡に決定
・第13話 わずか4年で田畑に製鉄所をつくった偉業
 
第二編 八幡製鐵所創業から終戦までの歩み
・第 1話 八幡製鐵所の苦難の船出
・第 2話 日露戦争が八幡製鐵所拡張に拍車をかける
・第 3話 日露戦争後の反動不況と鉄鋼需要の伸び
・第 4話 第一次世界大戦後に鉄鋼需要が大幅に伸びる
・第 5話 河内貯水池物語
・第 6話 くろがね線物語
・第 7話 高見神社物語
・第 8話 満州事変と洞岡地区の拡張
・第 9話 戦争時代の終焉