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近代鉄鋼技術の父 野呂景義物語

 

1854年名古屋橦木町生まれ、東京大学に入学し、ドイツから招かれたCurt NETTO

教授の基で採鉱冶金学科を学び1882年に卒業し、やがて助教授になる。

1885年5月からヨーロッパに留学し、まずロンドン大学で機械工学と電気工学を

学び、1986年4月からドイツに転じ、もっぱらFreibergのLEDEBUR教授について

鉄冶金学を修めた。野呂は世界有数の鉄冶金学者であると同時に、生産現場での

豊富な技術経験を積んだLEDEBUR教授から、日本の近代化についての重要なこと

を学んだ。

それは、「伝統技術のよった風土の条件を考慮することが大切であること、
そして冶金学の立証する技術条件や経済条件との相関関係のうえに立地・設備計画を
決定すべき」
であること。

1889年に帰国し、帝国大学工科大学の鉄冶金の教授に就任し、1891年には鉄冶金分野では
最初の工学博士を授与された。

 

それから、野呂景義と製鉄所建設のかかわりが始まる。

 

 
わずか2年で閉鎖した官営釜石製鉄所
1880
年(明治13年)官営釜石製鉄所が操業開始したが、
原料が近くに豊富に存在しないことや技術を全てイギリスから輸入したため、
わずか2年で閉鎖した。
 
釜石鉱山田中製鉄所が発足
その後1887年(明治20年)釜石鉱山田中製鉄所が発足し、
操業を開始する。
1894年(明治27年)に野呂景義が顧問として迎えられ、
日本初、コークス炉を利用した銑鉄作りが成功した。

 
野呂が参画した製鉄事業調査会
1995
製鉄事業調査会は発足
政府は野呂に一刻も早い製鉄所の実現を期待した。
野呂は、そうした性急な方針には反対であった。
「新しい製鉄所を立ち上げるには、釜石製鉄所の失敗の原因を徹底的に調査する必要がある」
成功は失敗から学ぶ。これが野呂の技術者としての信念であった。
足掛け2年釜石に通い、失敗の原因として
① 不十分な原料調査 ②全て海外技術に依存 と結論づけた。
 
野呂の新しい製鉄所建設構想は、始めに導入する技術は小さくてよい、技術そのものよりも、
外国技術を改良したり、それぞれの長所を取り入れる力、いわば技術を生かす「技術力」を重視した。
しかし大型製鉄所を目指す政府方針に合わず、野呂は失脚した
 
その後野呂は、鉱山や製鉄所で技術指導を続ける。
 

 
東田第一高炉火入れ
1901年2月
ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始
しかし、その滑り出しは惨憺たる状況であった。
火入れの翌日1.2トン出銑したが、原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、
羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
その後対策を行って、操業を進めるもきわめて不良、予定出銑量160トン/日に対して
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、
銑鉄の品質は概して粗悪であった。
そしてついに1902年5月に休止した。 


 
急遽、野呂景義が呼び出され、製鉄所立上げが始まる
野呂の門下生である製銑部長服部斬が記した操業記録と現場を徹底的に調査した。
その結果、高炉の構造、高炉装入物の配合、炉内における装入物の溶結、数度に及んだ
送風停止が原因であると指摘。
結局、操業不調の主な要因は、炉床の冷え込みと使用するコークスの品質に起因することは
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。 
 
抜本的な設備改善と新しい技術の導入
炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。
コークス製造において、「二瀬炭に無煙炭もしくは三池炭を配合して堅質で大塊のものを製造
という配合技術が導入され砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって
積極的な改善が進められた。     
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し外国人技術者の設計と操業指導が
必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした
このように、我が国の自然的諸条件を軽視又は無視した技術の在り方が批判され、生産技術の
実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。 
 

 

再火入れ
1903年7月23日に再度火入れされ、以後操業は快調で1910年6月2日まで連続稼働し、
2140日に亘って出銑を続けた。 
 
 
 

 
八幡製鐵所創業の意義
野呂景義の汗と努力が実を結び、鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける
原動力となっている。
 
生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である

 


産業遺産が多い都市・北九州

北九州市は世界遺産を含む産業関連遺産の宝庫です。

世界遺産に登録された明治日本の産業革命遺産である旧本事務所や遠賀川水源地ポンプ室、

鉄道駅舎として初めて国の重要文化財に指定され門司港駅、製鉄関連の遺産をはじめとした

多くの産業遺産があります。このことは、北九州市が日本の産業近代化に大きく関わっている

ことの証明です。そのサイトでは、それらの遺産を紹介して行きます。

 


 

世界遺産 / 旧本事務所

1897年(明治30年)に八幡の地に近代製鉄所を建設することが決定されてから、わずか4年で

製鉄所を完成させました。その製鉄所の指令を行うところが本事務所。が外側が赤煉瓦の

モダンな建物です。1901年(明治34年)に製鉄所が創業し、富国強兵の基製鉄所が次々と拡張

していきました。そのため、本事務所は手狭になり、その機能は1922年には新しい2代目の本事務所

(枝光)に移りました。その後、初代の本事務所は製鉄製品の研究所や、様々な目的で使用

されました。そして、現在まで日本の産業近代化の歴史を見続けて来た本事務所です。


 

世界遺産 / 遠賀川水源地ポンプ室

明治日本の産業革命遺産の遠賀川水源地ポンプ室。八幡製鐵所に水を供給するために1910年に稼働

を開始し、100年以上経過した今でも、当時と変わらぬ威厳のある姿のポンプ室から、毎日八幡製鐵所

(現日本製鉄 九州製鉄所)で必要とする水の約70%を休みなく送り続けている製鐵所の心臓部です。


 

東田第一高炉

ものづくりの息吹を感じる日本の産業近代化の聖地。
世界でここだけ 高炉設備一式が完全な形で保存されているところ!
1901年(明治34年)日本の近代製鉄がここで生まれた。多くの人々の手によって日本の産業近代化の

礎がここで築かれた。そして、日本の産業発展の道程、先人たちの功績を後世に伝えるべく
1972年(昭和47年)まで操業を続けた10代目の東田第一高炉が保存されています。


 

河内貯水池

八幡製鐵所の第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919年(大正8年)に竣工し、
8年の歳月をかけて、延90万人の人々の手で1927年(昭和2年)に完成しました。
その総指揮者が、土木技師の沼田尚徳、当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」という
ヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と情熱を注いだ大事業です。
河内貯水池は近代化産業遺産としての価値だけでなく、北九州のエコの原点や未来を見据えた
SDGsの取組みを学ぶことの出来るところです。


 

くろがね線

戸畑と八幡を結八幡製鐵所の専用鉄道

八幡製鐵所は、戸畑で操業していた東洋製鐵と1921年に合併した当時から、戸畑地区で生成する
熔銑を船舶で八幡へと輸送していたが、海上輸送のリスクと不経済性が指摘されていた。

一方八幡地区では、高炉の溶銑をつくるときの副産物である鉱滓(スラグ)の処理が問題化していた。
これらの打開策として建設されたのが、戸畑地区と八幡地区を鉄道で結ぶくろがね線。

 

 

門司港駅

1988年(昭和63年)には鉄道駅舎として初めて国の重要文化財に指定され、現在では東京駅と

2つが国の重要文化財です。1914年(大正3年)に門司駅(当時)として開業、1942年(昭和17年)に

門司港駅と改称されました。建物は、フレンチ・ルネッサンス調との木造二階建て建築で、

ドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルの監修によるものです。

 

 

旧門司三井倶楽部

1921年に三井物産の社交倶楽部として作られた建物です。ハーフティンバー様式と呼ばれる

ヨーロッパ伝統の木造建築工法で作られ、門司港駅と同様に国の重要文化財に指定されています。

1922年にアインシュタイン博士が全国を講演する為に来日した際に、三井倶楽部に宿泊しました。

博士が宿泊した部屋は当時の様子を再現しています。

 

 

赤煉瓦プレイス

旧サッポロビール九州工場の赤煉瓦建物などを保存活用した貴重な歴史的建造物です。

門司麦酒煉瓦館は旧工場事務所を改装し、ビールの歴史と門司麦酒工場・九州工場の沿革の

ほか、ビールの製造や原材料・缶・ビンのリサイクルについての解説展示を行っています。

門司麦酒煉瓦館をはじめ、現在残る醸造棟・旧組合棟(赤煉瓦写真館)・倉庫跡(赤煉瓦交流館)

の4つの建物は歴史的価値を認められ国の有形文化財に登録されています。

 

 

西日本工業倶楽部(旧松本家住宅)

戸畑の夜宮公園の南隅の鬱蒼とした松林の中に溶け込むように邸宅の門を構える
アール・ヌーボーの館と称され、国の重要無形文化財に指定されています。

旧松本家住宅は、炭鉱主・実業家の松本健次郎が自分と家族の住宅と明治専門学校(父安川敬一郎と

ともに創立した学校で現在の九州工業大学)の迎賓館を兼ねて建てたものです。 

 

 

北九州の地図

 


 

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日本で一番基幹産業に適した場所・北九州

1901年(明治34年)に日本の近代製鉄が八幡で産声をあげ、北九州が日本の産業近代化に

大きく貢献したことは言うまでもありません。

 

ではなぜ北九州が、その舞台として選ばれたのか?

先ずは、製鉄所が八幡に決まった経緯を見れば、場所的に優位なことが分かります。

 
製鉄所建設地の検討  

1)全国から17の地域が候補地となる
1896年に政府によって17の地域が候補地として選ばれた。その中の3地域が北九州。
青森 釜石 塩釜 千葉 品川 鶴見 静岡 和歌山 梅田 尾道
呉 大竹 大牟田 長崎 大里(門司) ⑯板櫃(小倉) 八幡(八幡)
各候補地とも郷土に近代的な製鉄所をと意気込み誘致活動を展開し、
お互いに一歩もゆずらなかった。
 
2)現地調査の実施
大島道太郎が候補地決定の責任者となり、調査団を率いて候補地を調査した。
その立地の条件は、①広大な建設用地が安価で得られる ②海上・陸上の交通の便がよい
② 原料と燃料が得やすいことが考慮された。
調査の結果、4ヶ所に絞られる。

(広島県)②大里(門司)③板櫃(小倉)④八幡(八幡)

 

原料と燃料入手の点で呉は落ちて、北九州の三村が残る。

 

3)大里が第一候補

その中で、大島は、石炭に入手には洞海湾(八幡)だが、若松港の水深が浅く到底大型船を
出入りさせることができないと、一旦は「大里第一」とした。
大里は、筑豊炭田を背後に持ち、アシが生い茂る湿地帯が多い土地、海陸の交通条件に優れ、
八幡が足元に及ばない人口を抱えていた。
更に、江戸時代に村の一角から鉄鉱石と銅鉱石が採掘されていたことも影響している。
 
4)八幡の立地に向けての取組
これに対して、若松築港会社会長の安川敬一郎は、水深を深くすれば大里に勝ると確信し、
起死回生の政治工作を行う。
旧黒田藩主・金子堅太郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一の同意を得、渋沢栄一と後の長官和田維四郎
を通じて、大島と長官山内堤雲の説得を依頼した。

こうした安川敬一郎の運動が紅を奏し用地買収担当の製鉄所事務次官に八幡出張の
辞令が出された

 

  
  安川敬一郎      芳賀種義

 
当時の八幡村は、人口2,000人足らずの農業と漁業を営む寒村であった。
製鉄所建設用地確保のため、八幡村の芳賀種義村長「八幡村に製鉄所を、日本の
鉄づくりは八幡から」
と熱心に村民を説得し、100万m2もの広大な土地を地価の

半値で売り払うことに協力してもらった。
 
5)官営製鐵所が八幡に決定
こうした後、1897年2月6日「官営製鉄所は福岡県 下筑前国遠賀郡 八幡村に置く」
と公布された

             製鉄所建設前の八幡村

 

そして、1901年の創業に向けての建設工事が開始される。

 


 

製鉄以外の産業が創業
近代製鉄所が八幡で操業を開始し、それ以外の地位でも色んな産業が生まれ
日本の産業近代化がここから始まった。

  

   八幡 & 戸畑 

    小倉 & 大里

     小倉 & 門司

・1905年 若松石炭協同組合事務所開設(石炭会館)
・1906年 東京製鋼 小倉工場創業
・1908年 安田工業八幡工場創業、明治紡績&明治鉱業創業
・1910年 筑豊石炭協同組合直方事務所開設
・1911年 田村汽船漁業部(ニッスイの前身)創業
     出光商会(出光興産の前身)創業、戸畑鋳物(日立金属&日産の前身)創業
・1913年 鈴木商店関連創業(帝国麦酒、大里硝子製造所、大里酒精製造所)
・1917年 東洋陶器(TOTOの前身)創業、神戸製鋼所門司工場(神鋼メタルプロダクツの前身)
・1918年 小倉製鋼所(住友金属工業、新日鐵住金の前身)創業、
     黒崎窯業(クロサキハリマの前身)
     山九運輸(山九の前身)創業、鈴木商店日本冶金(東邦金属の前身)創業
     明治紡績創業
 

 


 

自然豊かな都市・北九州市

北九州市な周囲を海(玄界灘、関門海峡、瀬戸内海)、山そして川に囲まれた

自然豊かなまちです。

その証明が全国でも稀な、1つの国立公園(瀬戸内海国立公園)、2つの国定公園

(北九州国定公園、玄海国定公園)を持つ都市です。

また、都心から近いところに、多くのほたるの鑑賞地があるのも、北九州市が自然豊かで

生き物たちにやさしいところであることを物語っています。

 


 

自然豊かな場所の紹介

 

平尾台 

日本三大カルストと呼ばれ、北九州国定公園に指定されています。

最高峰は北九州市小倉南区の貫山 (712m) でその周辺には400m~600m級の山が点在する。

千仏鍾乳洞、目白洞、牡鹿洞、青龍窟などの鍾乳洞が点在し、大小のドリーネのある

カルスト地形が広がっています。トレッキング等にも最適の場所です。


 

皿倉山 

標高622mの山頂から北九州市を一望できる皿倉山。夜になると、日本新三大夜景にも指定

されている、世界一ダイナミックな夜景が楽しめます。山頂までは、皿倉山登山鉄道のケーブルカー

とスロープカーを使えば、山麓駅から山頂駅まで10分で行くことが出来ます。

また複数の登山ルートが整備されていますので、トレッキングを楽しむこともできます。


 

若松北海岸・遠見ヶ鼻

若松北海岸は、玄海国定公園の始まりの場所です。その中で、最も眺望が美しいところが

遠見ケ鼻です。妙見埼灯台があり、いかにも荒海の岬といった感じです。江戸時代には

遠見番所が設けられ、沖の密貿易船、難破船、外敵等の異変に備えていました。
灯台の立つ断崖から見下ろす海の色、沖の島々、しま模様を描いた岩肌など見応えが

十分です。この景色は環境未来都市・北九州を代表する自然の美の一つです。


 

響灘ビオトープ

響灘を廃棄物処分場として埋め立てた敷地に自然発生した自然の楽園・響灘ビオトープ。

整地されていない埋立地に雨水が溜まって湿地ができ、鳥などが運んできた植物の種から

木が自生し、環境省の絶滅危惧種(鳥類レッドリスト絶滅危惧IB類)に指定されている

チュウヒをはじめとする237種の鳥類や、284種の植物などが確認されている生態系を守る

ため全体(約41ha)のうち約7haが公開されています。

 

 


 

曽根干潟

曽根干潟は、北九州市小倉南区の東側に広がる市内最大の干潟で、面積は517haあります。
背後の曽根新田地区とあわせて市内でも有数の野鳥の宝庫として知られています。

特に、世界的にも数が少なくなっている「ズグロカモメ」の日本でも有数の越冬地と

なっています。また、2億年前からその姿をほとんど変えずに生きてきたことから、『生きた化石』

とも呼ばれているカブトガニの生息地ともなっています。環境省のレッドデータブックに指定

されていることから、ラムサール条約に曽根干潟が登録されることを目指す動きがあります。

 

 


 

北九州の地図

 


 

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