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勝山公園

小倉城を中心として広がる公園で、紫川と一体となった都心部の憩いの場として、多くの市民に

親しまれています。勝山公園は小倉陸軍造兵廠敷地の一部で、1945年(昭和20年)8月9日の

原爆投下の目標とされました。しかし、8月8日の八幡大空襲の煙と八幡製鐵所でコールタールを

燃やして黒い煙幕を上げたため造兵廠の位置が確認できず、急遽変更し長崎に原爆が投下されました。

そのような歴史的経緯から、公園内に「長崎の鐘」(1973年に長崎市より贈呈された鐘のレプリカ)

が設置され、毎年8月9日の長崎原爆の日には北九州市民による慰霊祭が行われています。

 


 

勝山公園の「嘉代子桜・親子桜」

昭和20年8月9日 原爆が長崎に投下された時、林 嘉代子さん(当時15歳)は、爆心地から

500メートルほどしかはなれていない城山小学校で学徒報国隊員の一人として働いており、

他の多くの女学生とともに亡くなりました。戦後、嘉代子さんの母親の津恵さんは、娘や一緒に

亡くなった女学生の慰霊と平和への願いを込めて同小学校に桜の苗木を植えました。その桜は

「嘉代子桜」と名付けられ、今は、大木となり、毎春桜の花を咲かせています。
北九州市は、平和への願いが込められた「嘉代子桜」に由来する桜を「嘉代子桜・親子桜」と

名付け、広く北九州市内に植樹を行い、市民の皆さんに原爆や戦争の悲惨さ、平和の尊さを

伝えていくこととしています。

 


 

小倉陸軍造兵廠

小倉は明治時代から昭和20年まで、陸軍の部隊や兵器工場があった軍都でした。特に造兵廠と

呼ばれていた兵器工場は現在の市役所から、木町まで広がるとても大きな工場でした。
そのため、小倉陸軍造兵廠は1945年(昭和20年)8月9日には原子爆弾の第一投下目標に

されました。 しかし前日の八幡大空襲の煙と八幡製鐵所でコールタールを燃やして黒い煙幕を

上げたことにより、造兵廠の位置が確認できず、急遽長崎に変更され、11時2分に長崎の松山の

上空で原子爆弾が投下されました。

 


 

基本情報

・住 所 北九州市小倉北区城内
・アクセス JR小倉駅から徒歩15分

 

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皿倉山からの夜景は世界一

 

観た人誰もが世界一と絶賛する、日本新三大夜景に登録されている皿倉山からの北九州の夜景。

しかし稲佐山からの長崎の夜景は日本新三大夜景と世界三大夜景にも登録されています。

果して長崎の夜景が北九州の夜景より素晴らしいのでしょうか。その答えは対比すると分かります。

夜景の規模そして光の数と密度が全然違います。

ケーブルカーとスロープカーを使えば、皿倉山山頂まで10分で行けます。

是非世界一の夜景を自分の眼で観に行きましょう。

 


 

夜景の比較

 

北九州

皿倉山の高さ:622m

夜景の領域:幅 40km X 奥行 15km

造りだす光の数:人口100万人以上(下関も含む)

 

 


 

長 崎

稲佐山の高さ:333m

夜景の領域:幅 40km X 奥行 15km

造りだす光の数:人口40万人

 

 

 

小伊藤山公園

1945年(昭和20年)8月8日の八幡大空襲

大量の焼夷弾を投下され、約2500人の人たちの大切な命が奪われました。

その惨劇の象徴とされるのが今のJR八幡駅近くにあった小高い丘の「小伊藤山」。

内部に掘られた横穴防空壕に逃げた大勢の人は煙に包まれ、窒息などで約300人の

犠牲者が出たとされています。

その霊を慰めるため、1952年(昭和27年)に小伊藤山公園に慰霊塔が建てられました。

1953年(昭和28年)には、八幡の戦後復興と世界の平和を祈念して、彫刻家樽谷清太郎氏

によるブロンズの復興平和記念像が設置されました。

 

小伊藤山公園内の慰霊塔 

小伊藤山公園から望む

皿倉山

 復興平和記念像 


 

基本情報

・住 所 北九州市八幡東区尾倉2-8
・アクセス JR八幡駅から徒歩5分

 

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日本の産業近代化に貢献した北九州の歩み

北九州がつくった日本の産業近代化の礎
  北九州を舞台とした 日本の産業発展の道のり
 

北九州の歴史を辿れば、日本の産業発展の道のりが見えてくる。     
この資料は、産業近代化視点から、ジャパン九州ツーリスト株式会社が独自で歴史を
調査・研究して、「日本の急速な産業発展」として編集したものです。

 


 

産業近代化の歩み

製鉄・鉄鋼産業に焦点を当て、どのようにして世界一の工業立国となったか
堀川の建設から、筑豊炭鉱との関わりも含め、現在の環境未来都市北九州までの歴史を

紹介します。

 


 

堀川建設 1621年慶長5年)~1801年寛政13年

遠賀川周辺の洪水対策として人口の河川・堀川が1621年から180年の

歳月をかけて1801年に完成。
明治に入って石炭輸送用として利用。


 

筑豊炭鉱 1700年代(江戸中期)1976年昭和51年) 

室町時代に香月で発見、江戸中期から塩田用燃料として炭鉱開発が

始まり、1872年(明治5年)鉱山解放令から筑豊御三家(麻生太吉、

貝島大助、安川敬一郎)を中心に急速に鉱山開発が進み、戦前は日本

最大の産炭地。1976年(昭和51年)貝島炭鉱閉山を最後に筑豊炭鉱の

幕を閉じる。


 

門司港 特別輸出港に指定 1889年(明治22年)産業近代化の起点

石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目の特別輸出港に指定され

築港工事が開始された。
金融機関や商社・海運会社の支店が相次いで進出し、外国航路の港

としての歴史が始まる。


 

九州鉄道開通 

1891年:九州鉄道の起点門司駅が開設(現在の門司港駅の東側)
1897年:筑豊鉄道を吸収合併し、筑豊炭坑からの石炭輸送を可能とし、

門司港が石炭の積出港として繁栄。

1914年:2代目の駅舎が完成し門司港駅と改称、駅舎として初の

重要文化財に指定


 

石炭積出港・若松 1890年(明治23年)~1898年(明治31年)

1890年:若松港築港開始

普通の漁村にすぎなかったところを、石炭の積出港として築港、

最盛期には日本一の貨物取扱量を誇った。

1891年:筑豊興業鉄道が石炭専用の運搬鉄道 直方〜若松間が開業


 

製鐵所建設計画 1891年(明治24年)に開始

中国で製鉄所建設され、日本の製鉄所建設に拍車がかかる。
当初は野呂景義による年間6万トンの製鉄所を計画。

日清戦争後、1896年に和田維四郎により、大幅に製鉄所建設計画を

変更し、年間9万トンとした


 

建設場所が八幡に決定 1897年(明治30年)

全国で17ヶ所選ばれ、門司の大里が第一候補地となる。
大里は、筑豊炭鉱に近く、広大な湿地帯、海陸の交通、労働力の面で有利
八幡は水深が浅いことが難点、それ以外は石炭入手の面等でベスト、

安川敬一郎が政治化を動かす。当時は自然豊かな寒村、芳賀種義八幡村長が、『八幡村に製鉄所を、日本の鉄づくりは八幡から』熱心に村民を説得

し広大な土地を売り出し、 1897年八幡村に決定


 

製鉄所建設 1897(明治30年)~1901年(明治34年)

長閑な寒村だった八幡村の地に、わずか3年間で製鐵所を完成させる。
旧本事務所、旧鍛冶工場、修繕工場(以上世界遺産)、東田第一高炉、

軌条ロール工場、大型ロール工場、中型ロール工場、小型ロール工場、

薄板ロール工場、高見貯水池、炉材工場他


 

東田第一高炉火入れ    1901年(明治34年)

ドイツのGHH社の技術で設計・建設そして操業を開始するも、

故障の連続で惨憺たるすべり出し。
所定の出銑量がいつまでたっても出ないありさま。
その危機を救い、日本の産業発展の礎を築いたのが野呂景義


 

鈴木商店 門司に進出 1904年(明治37年)~

国際貿易港として繁栄していくなか、製鉄所建設の候補地ともなった

門司・大里地区に神戸の貿易商鈴木商店が進出してきた。
1904年:大里製糖所(現在の関門製糖

1912年:国麦酒現在のサッポロ
1914年:大里酒精造所(現在のニッカウヰスキー


 

八幡製鐵所/第一次拡張期 1906年(明治39年)~1910年(明治43年)

日露戦争が膨大な軍事物資供給が必要となり、鋼材生産量年間18万トン

に拡張。
東田第三高炉、分塊工場、小形工場、線材工場、鉱滓煉瓦工場他、

八幡泊地


 

八幡製鐵所/八幡泊地 1906年(明治39年)~1925年(大正14年)

料の荷卸し、成品の積出の為に岸壁が建設された。
1906年:西田岸壁東部

1920年:中央岸壁

1922年:堂山製品岸壁及び松ヶ島岸壁
1925年:西田岸壁西部


 

安田工業 八幡で洋釘造りを開始 1908年(明治41年)

897年(明治30年)、安田財閥の創始者・安田善次郎が、東洋で初の

釘製造を決意し東京深川で、東洋初の洋釘の製造販売を開始。
1908年(明治41年)に八幡工場を建設し、八幡製鐵所で製造した、

国産線材を使った洋釘づくりが始まる。


 

明治専門学校の開校 1909年(明治42年) 

日本の産業発展に、理想的な工業技術者の育成を目的として、

安川敬一郎松本健次郎親子が設立した。
初代総裁に山川健次郎を迎え、「技術に堪能なる士君子」の養成を

掲げ、その後の産業発展に大きく貢献、1949年(昭和24年)現在の

九州工業大学となる。


 

八幡製鉄所/遠賀川水源地ポンプ室(世界遺産) 1910年(明治43年)

製鉄所拡張計画に伴い、大量の水が必要となり、遠賀川から製鉄所まで

水を送るため、遠賀川水源地ポンプ室が造られました。 

現在も現役として稼働中。


 

八幡製鐵所/第二次拡張期  1911年(明治44年)~1915年(大正4年)

日露戦争後、鉄道、造船更には工場・道路・港湾等の整備のための

鋼材需要が大きく伸び、鋼材の年産30万トンに能力アップ。 

東田第4高炉を中心として、製鋼・圧延部門を増強。


 

多くの企業が北九州で誕生 1910年(明治43年)~

1910年:森田範次商店(現在のシャボン玉石けん)   
1911年:田村汽船(現在の日本水産)、出光商会(現在の出光興産)
1915年:安川電機製作所(現在の安川電機)
1917年:東洋陶器(現在のTOTO)、
1918年:黒崎窯業(現在の黒崎播磨)、山九運輸(現在の山九)


 

八幡製鐵所/第三次拡張期  1918年(大正7年)〜1929年(昭和4年)  

第一次世界大戦下の輸入断絶、民間需要拡大に対応するために、

年産75万トンに能力アップ。
東田第5、6高炉、コークス炉新設、銑鉄鋳銑機、第三製鋼工場、

珪素鋼板工場、河内貯水池、養福寺貯水池他


 

他の製鉄会社の創業 1917年(大正6年)、1918年(大正7年)

日本の鉄鋼需要増大に伴い下記の製鉄所が北九州で生まれた。
・1917年:九州製鋼所(八幡)、後の新日鐵、現在の日本製鉄 
・1917年:東洋製鉄(戸畑)、後の新日鐵、現在の日本製鉄
・1918年:小倉製鋼所(小倉)、後の住友金属小倉製鉄所

      現在の日本製鉄


 

●八幡製鐵所/本事務所移動 1922年(大正11年)

・初代本事務所:1899年に建設された赤煉瓦2階建て、製鉄機械同様に

 ドイツの建築様式を取り入れた。当時としては、最もバタ臭い

 (西洋風)なものであった。
・2代目本事務所:官界、経済界に誇るべき地位を示すために、所要資材

 全てを八幡製鐵所のものを使ったルネッサンス様式の3階建ての

 モダンな事務所。1922年から使用された。


 

八幡製鐵所/河内貯水池 1919年(大正8年)~1927年(昭和2年)

土木技師・沼田尚徳の指揮のもと、8年の歳月をかけて完成させた、

自然と調和した、第一級の近代化産業遺産。 

完成当時は東洋一のダム。


 

八幡製鐵所/くろがね線 1927年(昭和2年)~1930年(昭和5年)

3年の歳月をかけてつくった、八幡と戸畑地区を結ぶ製鉄所専用の鉄道。

その工事は製鉄所の社員で行い、中間地点に当たる総延長1180mの

宮田山トンネルは出水等に見舞われて難工事だった。


 

●初回の八幡空襲 1944年 (昭和19年) 

B29による日本本土の最初の空襲が八幡製鐵所を標的としたもので、

6月16日、そして8月20日に人命と設備に甚大な被害をこうむった。

東田・洞岡コークス炉、鋼板工場、西田発電そして動力・ガス・水道

電話などが寸断。

また同時に北九州5市全土に多大な被害があった。


 

終戦前の八幡大空襲 1945(昭和20年)年8月8日

一瞬にして目の前が煙で覆われた。2500人もの尊い命が一瞬で奪われ、

町や工場も壊滅状態。
石炭の入手が困難となったが、操業を維持すべく社員が炭鉱で労働

しながら危機を乗り越えた。


 

長崎に原爆投下 1945年 (昭和20年)8月9日

小倉が第一目標地であったが、前日の八幡大空襲の煙及び製鉄所からの

煙幕により、小倉が視界不良で造兵廠の場所が特定できなかった。

そのため急遽、第二目標地の長崎に変更し、11時2分、長崎に投下、

街は壊滅的な被害を受け、多くの尊い人命が奪われた

そして、8月15日に終戦を迎える。

 

環境問題 1950~60年代
当時公害を防止する環境対策技術がなく、国内最悪の大気汚染と死の海と化した洞海湾。
市民運動を発端に、世界でも類の無い方法で、官・学・企業をあげた取組で公害対策を行った。
1987年(昭和62年)に、環境庁の「星空の街コンテスト」で大気環境が良好な「星空の街」に

選定され公害克服が証明された。
        
1950年代の東田     1960年代の洞海湾     洞海湾浚渫

 


 

若戸大橋開通 1962年 (昭和37年)

洞海湾に架設された、若松と戸畑を繋ぐ我が国最初の吊り橋。
完成当時は東洋一の吊り橋、溶接の信頼性の問題から、

リベット継手を使用した構造。
八幡製鐵所で製造した鋼材 24,000トン使用。

 


 

北九州市発足 1963年 (昭和38年)

各地で産業が発達し、5市が誕生。 1899年:門司市1900年:小倉市1914年:若松市、1917年:八幡市、1924年:戸畑市
それから、5市で一大都市圏を形成しながら共通のインフラも持ちながらも、異なった行政地域であったため、各市間を一体化して都市機能を有効に

発揮し、一体感のあるまちづりをすべく、1963年に北九州市が誕生。


 

1970年代の様子
    
  2代目本事務所      皿倉山から望む八幡製鉄所

 


 

八幡製鐵所/東田第一高炉(第10次)  1972年(昭和47年)吹止め

1962年に第10次の改修工事を行い、24時間365日休みなく10年間操業を

続け、高炉の神様田中熊吉が生涯を全うするのと同じ年の1972年に吹止

され、日本近代製鉄の聖地・東田の高炉の幕を閉じた。

現在高炉設備一式が、そのまま完全な状態で保全されている、

世界で唯一の遺産。


 

関門橋開通 1973年 (昭和48年)

関門海峡の下関市壇之浦と北九州市門司区を結ぶ開通時点では

日本最大規模の橋
3径間の吊り橋で、補剛桁はトラス。橋梁等の防食法には溶射が採用。

八幡製鐵所で製造した鋼材 30,000トン使用


 

八幡製鉄所/戸畑へ鉄源集約 1976年(昭和51年)

八幡の洞岡高炉群、焼結工場、コークス工場及び東田の製鋼工場の全ての

工場を休止。八幡地区は、圧延工場だけを残す。
戸畑地区に鉄源を移し、戸畑第一高炉と第四高炉を改修、製鋼工場を新設

若松に焼結工場を新設。


 

北九州市ルネッサンス構想 1994年 (平成6年)~

1901年に製鐵所が操業を開始し、日本の産業発展を礎を築いた場所、

1972年に東田第一高炉が休止後東田地区及び洞岡地区の製銑・製鋼関連の

工場休止に伴い、広大な120ヘクタールが遊休地となった。新日鐵は道路、電気、ガス、等のインフラを整備し、北九州市ルネッサンス構想を基に

新しいまちづくりが始まる


 

北九州エコタウン 1997年 (平成9年) 
あらゆる廃棄物を他の産業分野の原料として活用しする、リサイクル事業に

1997年に川取り組む企業団地で1997年に日本で初めて承認を受けた。
    
 北九州エコタウンセンター  風力発電       九州製紙

 


 

現在の北九州市  世界を牽引する環境都市
2008年(平成20年):環境モデル都市に認定、

2010(平成22年):アジア低炭素化センターを開設、

2011(平成23年):「環境未来都市」やOECDからアジア初の「グリーン成長モデル都市」

に選定。日本の近代産業の礎をつくった北九州市、世界の低炭素化社会実現に向けた牽引役

としての新たな挑戦が行っています。
           
  
平尾台      八幡、若松地区      洞海湾

 


 

北九州の地図    

 


 

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日本の産業近代化に貢献した鈴木商店

門司港は1889年(明治22年)に国の特別貿易港に指定されると、明治後半から

大正時代にかけ、人や貨物を載せ日本と海外を行き来する船が寄港する国際貿易港

として繁栄していきます。事業や販路拡大を願う実業家や貿易商がこぞってこの地を

目指し、三井や三菱などの財閥もこの地に進出を図ります。

 

門司港が繁栄していく中、わずか数キロ先の門司・大里地区に神戸の貿易商「鈴木商店」

が目を付けて進出してきました。

鈴木商店は神戸の砂糖商「辰巳屋」に砂糖の鑑別と商才を見込まれた初代創業者

鈴木岩次郎が、辰巳屋ののれん分けという形で明治7年(1874年)に開業しました。

それから数年を経て岩治郎が亡くなった後は、2代目店主となった妻鈴木よねとともに、

丁稚奉公から身を起こした金子直吉が鈴木商店の大番頭として驚異的な経営と拡大を

遂げていきました。

 

 

 大里製糖所・関門製糖

帝国麦酒・サッポロビール

大里酒精造所

ニッカウヰスキー

良質な水と海上輸送に適した大里では、1904年(明治37年)の大里製糖所の開業を皮切りに、

神戸製鋼門司工場や帝国麦酒など、鈴木商店の発展とともに次々と工場が建設されました。

1914年(大正3年)焼酎工場を建設し、大里酒精製造所から始まります。操業当時は、

主に朝鮮や中国向けに輸出する焼酎を製造していました。焼酎を醸造するための発酵原料

として必要な糖蜜、フスマ、ビール酵母などは、全て隣接地にある鈴木商店経営の大日本製糖、

大里製粉、帝国麦酒から容易に調達することができました。

世界恐慌などの影響を受け、1927年に倒産しましたが、これらの工場や事業は日本を代表する

企業に引き継がれました。以来大里地区は日本の産業において重要な地として発展してきました。

 

鈴木商店の傘下で発展した企業

日商岩井(現在の双日)、三菱レイヨン、石川島播磨重工業、昭和シェル石油

日本化学、日産化学工業等

 


 

門司の地図

 


 

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河内貯水池 建設物語

明治日本の産業革命遺産の世界遺産登録の引き金となった
河内貯水池の裏側に秘めら物語

 

河内貯水池は、八幡製鐵所の第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として
1919年(大正8年)に竣工し、8年の歳月をかけて、延90万人の人々の手で1927年

(昭和2年)に完成した。

その総指揮者が、土木技師の沼田尚徳、当時は東洋最大級のダムで、
土木は悠久の記念碑というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と情熱を
注いだ大事業。河内貯水池は近代化産業遺産としての価値だけでなく、北九州国定公園の

自然と調和した、心和む場所。

 

この美しい景観の裏側に秘められた、土木技師の沼田尚徳の
愛と悲しみ、そして情熱」物語があります。 
水戸藩の沼田家に生まれ、大学卒業後、当時建設中だった八幡製鐵所に1900年に入社し、
土木技師として多くの功績を残した沼田尚徳の物語を、河内貯水池建設を中心に紹介します。

 


 

水戸藩の沼田家

1875年(明治8年)、水戸藩に代々仕えた武家の家系で生まれた。
沼田家は尊王攘夷派/天狗党結成の発起人の一人である伯父沼田順次郎、
藩幹部の筆頭書記官で祖父沼田久次郎を持ち、そして祖父とともに「大発勢」と呼ばれる
討伐隊に加わり、明治維新後は教育者の道を歩んだ沼田順三郎の長男として生まれた。
 

 

青年時代

1894年(明治24年)旧制第一高等中学に入学、そして新たに新設された京都帝国大学に
1897年(明治30年)に入学し土木技術や鉄筋コンクリート技術学び、更に水道施設や
琵琶湖疏水などの技術にも関心を持っていたと言われている。
 

 

官営八幡製鐵所に入社

1900年(明治33年)に京都帝国大学を第一回生として卒業、当時建設中だった官営八幡製鐵所に
土木技師として入社した。
 
1901年(明治34年)に東田第一高炉に火が入り、日本で初めての銑鋼一貫製鐵所が
操業を開始する。
1902年(明治35年)に技師を命じられ、1911年(明治44年)に修築科長となり、
1915年(大正4年)にはアメリカとイギリスに出張した。
手がけた工事は繋船壁築造工事に始まり、40万坪の洞岡埋築、くろがね線建設そして
河内貯水池や養福寺貯水池建設といずれも当時の日本で最大級の土木工事ばかりである。

  繋船壁築造工事

 くろがね線

宮田山トンネル・戸畑

くろがね線

宮田山トンネル・八幡


 

最初の挫折

1916年(大正5年)に竣工した下大谷貯水池が、わずか1ヶ月余りの後に豪雨で脆くも決壊し、
製鉄所や付近の住宅地域に多大な被害を及ぼし住民1名の尊い命を奪う大惨事を引き起こした。
事故の原因は堰堤の強度不足であった。事故により尊い命が犠牲になったことが大きな
心の痛手となり、その後この教訓から、建設現場を自らの足で歩き自分の目で確認する
現場第一主義の仕事スタイルを育んでゆく。
 

 

渾身の大事業、河内貯水池 土木は悠久の記念碑

製鉄所第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919年(大正8年)に竣工し、
8年の歳月をかけて1927年(昭和2年)に完成した。
当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく
英知と情熱を注いていく。

かつての河内地域は、八幡製鐵所から南10㎞ほど谷あいの31戸が暮らす
自然豊かで平穏な農村、また都市の児童の山村留学も受入れている教育先進地域

その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。

 


 

ダム建設コンセプト

ダムには当時最新の土木技術をふんだんに用い、一方で現場の石材や自社鋼材を
用いた独自の設計で土木構造物への新しい挑戦をした。
更に環境にも優しい工法を積極的に採用し、将来市民の憩いの場所をすべく、
橋から取水塔、管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。
 
このことは、先祖代々の土地と故郷の美しい自然を提供し、建設に協力を惜しまぬ
村人へ何としても恩返しでもあった。
安全管理でも最新の配慮がなされ、当時の西日本最大級の難工事にも関わらず8年の
建設期間中1名の死者も出さなかった。

80年経過した今でも給水の本来の機能を果たしながら、憩いの場として多くの人達の
親しまれている。

 


 

独特の英知を凝らして作った堰堤 ヨーロッパの古城をイメージ
当時コンクリートは高価の為、粗石を混ぜて使用、銅板を内部に入れた伸縮継手で
亀裂を防止した。
 
工事段階での型枠代わりに石壁をつくり、ダム完成の耐久性を確保。使用した切石は12万個、
加工時発生した小さな石も、付帯建築物に張付けて美観に優れたダムを作り上げた。

 


 

悲しみを乗り越えて

河内貯水池建設中、沼田尚徳は現場では明るく振る舞っていたが、数々の悲しみを心に
押し潜めていた。
山の神はこの大事業と引き換えにかけがえのない家族を貢ように強いていたようでもあった。
父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが妻泰子。

しかし、最愛の妻もダムの完成を待たずして猩紅熱でこの世を去ってしまった。

その後母も亡くなり、家族をダムが人柱として飲み込んでしまったような悲劇であった。


 
妻恋の碑
河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、
妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。
碑の両面には、日本語と英語でその思いが刻まれている。
 

       白山宮

 日本語(河内貯水池側)

  英語神社側

【日本語】
愛する妻の魂はどこにあるのか。麗しきあの人と今は世を隔て、

素晴らしき日々は夢に帰してしまった。散り行く桜の前にたたずむと断腸の思い。
 
【英 語】
IN MY MEMORY OF MY LATE BELOVED WIFE MRS. YASUKO NUMATA 
THROUGH WHOSE SELF-SACRIFICE AND UNDER GOD’S BLESSING 
I HAVE ENABLED TO CONSTRUCT KAWACHI WATER WORKS.
 
この神社は今でも地元の人達によって清掃され、更に泰子さんの為にと
花も植えられている。

 


 
企業利益より社会貢献 沼田尚徳の美学

実直でロマンティストの沼田尚徳は、営利栄達にはあまり縁がなかった。
これほどの大事業を成功させ、製鉄所と八幡市の発展の礎を築いき、勲三等瑞宝章まで授与され、
製鉄所では土木部長でありながら製鉄所長官に次ぐ処遇を受けていた。
にも関わらず、1930年(昭和5年)に55歳の誕生日を待たずして静かに勇退した。
その後、八幡、戸畑、若松市の委託として三市の上水道整備を指導し多大な貢献をし、
日本最大の軍事工場であった小倉陸軍造兵廠の土木関連業務も手がけたが、
1934年(昭和9年)に全ての職を辞し田舎に陰棲した。
 

 

遠 想

河内貯水池の堰堤を見下ろす小高い場所にヨーロッパの古城を模したと言われる
管理事務所が建っている。
その出入り口に沼田尚徳の「遠想」の言葉を刻み込んだ石の掲額が残されている。
ここから河内貯水池を静かに見下ろしながら、遠く未来の想いを馳せているに違いない。
その未来の姿はどのようなものであったのであろうか。それは百年経った今でも人々の
潤し続ける河内貯水池の姿、そして彼が残した礎の上にいつまでも成長を続ける
日本の未来だったのではなかろうか。
いつまでも成長を続ける日本の未来だったのではなかろうか
 

 

   管理事務所

      遠 想 

   沼田尚徳が描いた姿


 

本投稿は、西日本ペットボトルリサイクルの千々木亨氏の論文 鉄都に生きる男たちから
引用させてもらいました。

 


 

河内貯水池のガイドは、北九州の産業と歴史に精通した元新日鐵のエンジニアの

近藤にお任せ下さい。

 

お問合せ

ジャパン九州ツーリスト株式会社

福岡県知事登録旅行業 第3-688号

電話 093-521-8897   FAX 093-521-8898

Email info@japan-kyushu-tourist.com
〒802-0001 北九州市小倉北区浅野3-8-1 AIMビル6階     

 


 

基本情報

・住 所 北九州市八幡東区河内一丁目
・アクセス

西鉄バス「上重田」より徒歩約12分
車の場合:北九州都市高速 大谷IC 又は山路ICより約15分


 

河内貯水池の地図

 


 

アインシュタインが絶賛した門司の魅力

全てが芸術作品!
ノーベル物理学賞のアインシュタインが証明した門司の魅力

1922
年(大正11年)に日本講演旅行に向かう船上にいた、アインシュタインに
ノーベル物理学賞が授与された。このニュースは世界中に発信され、日本中の熱狂的崇拝を高め、
神戸に上陸して1ヶ月の日本各地が始まった。

そして最後に立ち寄ったのは門司、三井倶楽部の宿泊する。

 

 
    三井倶楽部          宿泊した部屋



 
旅の目的
ラフカディオ・ハーンなどで読んだ美しい日本を自分の目で確かめること、特に音楽、
美術、建築などをよく見聞きしてみたい。更に科学の世界連携で国際関係を一層親善に
導くのは自分の使命だと考えていた。
 

 
日本における印象
【国民性】
欧米人に対して遠慮深い、欧米の個人主義に行き過ぎに対して、日本の家族主義や
集団主義に親しみを感じる、これは人と人が容易に親しくなれる一つに理由。同情心に
富んだ繊細な魂を感じる。人間としても、偏見のない豊かな感受性に恵まれた国民性である。
 
【芸術性】
自然と人間が一体化しているように見える、この国に由来する全てのものが、愛らしく朗らかであり、
自然を通じて与えられたものと密接に結びついている。

全てが自然と一体化した芸術である。

 


 
門司滞在
最後に立ち寄った場所が門司、三井倶楽部で滞在し日本での旅を締めくくった。
離日に当たって、日本人の国民性、芸術そして自然を褒めたたえた。

青い海、緑の島々、丘陵の景色、樹木、田畑、町並み、小さな家屋、日本人の言葉、
動作や衣服、その人々が使っている家具など全てが、自然と調和した芸術である。

 

また、日本の建築は隅々まで手が入り込んで、外国の彫刻のように見える。
一言でいえば、日本は絵の国、詩の国である。
 
アインシュタインからのメッセージ 
しかしながら、滞在中気になったことを次のように指摘している。
いたるところで軍人を見かけ、平和を愛し平和を祈る神社にも武器や鎧が飾られているのは、
全人類に対して不必要だ。
いたるところで外国のものにかぶれているのは、日本及び日本人にとって好ましくない。
保存すべきものを破壊しようとする気風は関心しません。
 
アインシュタインが日本で最も感銘を受けたのは、建築を始めとする日本の伝統芸術であり、
優しい国民性であった。
欧米化の潮流の中で、日本の伝統的は美質を失いつつあることも、鋭く指摘している。

 


産業近代化に貢献した先人たち

                                      

日本の産業近代化に貢献した、北九州の先人たちを紹介します。

 

1. 野呂 景義 Noro Kageyoshi 八幡製鐵所の操業基盤を創った近代鉄鋼技術の父

1854年名古屋橦木町生まれ、東京大学で採鉱冶金学科を学び1882年に卒業。1885年5月から

ヨーロッパに留学し、機械工学、電気工学更には冶金学を学んだ。

1901年にドイツ技術の粋を集めた官営八幡製鐵所が操業を開始したが、その滑り出しは

惨憺たる状況で、わずか3ヶ月で休止した。その危機を救ったのが野呂景義。原料を含め

徹底した原因調査と、日本の条件に合わせた設備改造を行った。その汗と努力が実を結び、

鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに貢献することになった。

 


 

2. 鮎川 義介 Aikawa Yoshisuke 戸畑の発展に寄与し、日産コンツェルン形成
1880年、山口市で生まれ。長州藩士と、明治の元勲・井上馨の姪の長男。東京帝国大学卒業後、
芝浦製作所(後の東芝)に入社したが「日本の機械技術に独自のものはない」と渡米。鋳物会社で
当時の最新の可鍛鋳鉄製造技術を習得。帰国後1910年、29歳で北九州市戸畑区に戸畑鋳物㈱
(現・日立金属㈱)設立。資本を大衆から集めて日産自動車を始めとした日産コンツェルンを形成、
『日本資本主義の父』。戸畑漁港発展の先駆けとなる戸畑冷蔵を設立、その後の共同漁業
(後の日本水産)の下関からの移転に結びつく。

 



3. 浅野 総一郎 Asano Soichiro 一代で関連企業50社以上の浅野財閥を築く
1848年、富山県氷見市生まれ。村医者の息子。24歳で上京して一杯一銭の水売り商から始め、
多量のコークスをセメント工場へ売り込んだことが契機となり、後にセメント事業を興し、

海運業、石炭業、港湾事業など次々と新しい事業を拡大。『明治のセメント王』と言われ、

一代で関連企業50社以上の巨大な浅野財閥を築いた。1893年浅野セメント㈱門司分工場を設立、

1918年東京製鉄㈱小倉製鉄所の経営を引受け、浅野製鋼所㈱を設立(後の住友金属工業㈱

小倉製鉄所)、小倉築港事業に関わり、地域の経済発展にも大きく貢献した。

 



4. 安川 敬一郎 Yasukawa Keiichiro 世界のYASKAWAを一代で作り上げた実業家
1849年、福岡城下生まれ。黒田藩士の足軽で儒学者・徳永省易の四男。16歳で安川岡右衛門に
婿入り、18歳で四女の峰と結婚。藩校修猷館に学び、京都に留学。23歳で慶応義塾に入学。
帰郷後、炭坑経営に着手。好況・不況の波の中で、筑豊炭田御三家(安川、麻生、貝島)

として、政財界でも活躍。明治初期における日本工業近代化を支えた「地方の活力」の一つ、

「地方財閥の雄 安川・松本家」を一代で作った実業家。1908年明治専門学校を自己資金で開校、

教育にも力を注ぎ、現在の九州工業大学につながった。

 



5. 松本 健次郎 Matsumoto Kenjiro 父・敬一郎とともに北九州の発展に寄与
1870年、福岡市生まれ。安川敬一郎の次男。1890年、伯父・松本潜の養子となる。2年間の

アメリカに留学後、父・敬一郎が経営する炭坑業(のちの明治鉱業(株))に入り、父の協力者

として事業を推進。自ら貿易や電機、製鋼、窯業などの事業を興した。1918年、黒崎窯業㈱

(現在の黒崎播磨㈱)設立。明治鉱業(株)、安川電機(株)、九州製鋼(株)などに関わり、

北九州の地域発展・産業振興に尽力。1907年、父・敬一郎とともに私財を投じ、明治専門学校

(現在の国立九州工業大学)設立、次代の技術者教育・育成にも力を注いだ。

 



6. 金子 直吉 Kaneko Naokichi 鋭い先見性を持ち、あらゆる新規事業を生み出した
1866年、土佐生まれ。土佐藩領内商家の子。丁稚奉公先で法律、経済、工学、理学などを学んだ後、
鈴木商店へ。当主が若くして亡くなった後、番頭としてその再建を担う。「これからの日本は

工業である」という、時代の先見性から製鉄、人造絹糸、酒造、製紙、交通、電力などあらゆる

新規事業を生み出す。1904年鈴木商店が門司に大里製糖所を建設し食品工業の展開を進めた。

1911年大里製糖所(直営)、日本製糖㈱大里工場、帝国麦酒㈱、大日本酒類醸造㈱などの

食品工業群や鉄鋼関連企業を設立し、北九州地区産業の発展に貢献。

 



7. 沼田 尚徳 Numata Hisanori 当時、東洋最大級の河内貯水池建設最大の功労者
1875年、水戸市生まれ。水戸藩に代々仕えた武家の家系。1900年京都帝国大学を第一回生と

して卒業、当時建設中だった官営八幡製鐵所に技手として任官。製鐵所のみならず北九州工業

地帯の基盤となる土木業を成功に導く。中でも工業用水と水道用水供給の為に北九州郊外に

建設した河内貯水池は当時東洋最大級の規模を誇り、日本を代表する近代化産業遺産の一つ。

河内は当時最新の土木技術を用い、市民公園としての機能を付与することにも腐心、デザイン

にもこだわっている。安全管理でも細心の配慮をし、当時西日本最大級の難工事にも関わらず、

8年の建設期間中1名の死亡者も出しておらず、80年経った現在でも漏水やひびなども

認められていない。

 



8. 田中 熊吉 Tanaka Kumakichi 八幡製鉄所と共に生きた“高炉の神様” 
1873年、佐賀県三養基郡生まれ。農家の三男。1901年、官営八幡製鐵所の職工となる。

1912年技術研修でドイツに派遣、ドイツ語を習得し貪欲に高炉技術を学ぶ。1920年八幡製鐵所の

大ストライキ時は、「溶鉱炉の火を消すな」と高炉操業を陣頭指揮し、同年八幡製鐵所初の

宿老に任命。もともと宿老は戦国時代の武士階級のひとつで、八幡製鐵所の宿老は職工としての

最高の地位であり名誉。若い頃、操業中の事故で左目の視力を失いながらも高炉の状態を音で

判断できたといわれる。98歳で亡くなる直前まで高炉の仕事を続けた。

 



9.岩崎 俊彌  Iwasaki Toshiya 世界最大のガラスメーカー“旭硝子”創立者

1881年、東京市神田区生まれ。父は一代で三菱財閥を築いた岩崎彌太郎の実弟、母・早苗は明治
維新の元勲、後藤象二郎の長女。ロンドン大学に留学し、3年間応用化学の研究に従事。1907年、
尼崎で旭硝子㈱を創立、ベルギーより手吹式ガラス製造技術を導入。1914年に米国より

ラバース式機械吹法を導入、北九州牧山に新鋭工場を設立。当時、誰も成しえなかった

手吹円筒法による板ガラスの国産化に成功。北九州で機械吹円筒法による板ガラスの生産を

導入して一大飛躍を遂げた。現在旭硝子㈱は、世界最大のガラスメーカー。

 



10. 大倉 孫兵衛  Okura Magobei 衛生陶器研究でTOTO設立の基礎を創り上げた
 

1843年、江戸四谷生まれ。絵草紙屋二代目・大倉四郎兵衛の次男。義兄・森村市左衛門が設立した
森村組で陶器事業の日本における調達を担当。国内の既製品だけでは売上が伸びないと、海外用に
西洋式コーヒー茶碗などを森村組で生産。さらに硬質白色磁器生産のため、7年に及ぶ苦心の末に
国内原料での生産を実現。1904年日本陶器合名会社を設立し、名古屋市則武の工場を立ち上げた。
1912年、長男・和親と工場内に「製陶研究所」を設置、衛生陶器の研究を行わせ、後のTOTO

設立の基礎を作った。今日の㈱ノリタケ、日本ガイシ㈱、日本特殊陶業㈱、などわが国有数の

陶器製造産業の基礎となる。

 



11. 大倉 和親   Okura Kazuchika 父とともに陶器産業に貢献、TOTOの初代社長
 
1875年、東京日本橋生まれ。大倉孫兵衛の長男。1894年慶応義塾本科を卒業。父が幹部である
森村組に入社。1904年名古屋市近郊則武に森村組が設立した日本陶器合名会社の初代社長に

弱冠29歳で就任。当初は米国輸出用のディナーセットに苦労するが、完成後「ノリタケチャイナ」

のブランドを確立。1912年製陶研究所を設け衛生陶器の製造研究、便器などを試販。1916年

福岡県企救郡(現在の北九州市小倉北区)に小倉工場を建設。1917年工場開始にあたり

東洋陶器㈱として独立。日本陶器合名会社(現ノリタケカンパニーリミッテッド)、東洋陶器

(現TOTO)、日本碍子(現日本ガイシ)を創立、初代社長となった。

 



12. 国司 浩助 Kunishi Kosuke トロール漁船の発展に寄与し、
                          東洋一の戸畑漁港を建設
美家の三男。水産講習所卒業後、政府から英独両国へ派遣、トロール漁業の現場を英国で学ぶ。
帰国後は田村市郎(後の日本水産㈱創立者)の支援を得て、田村汽船漁業部設立、本格的に

トロール漁業を開始。トロール漁業の発展の基礎を作上げた。東洋一の戸畑漁港の建設、

ディーゼル・トローラーならびに冷凍冷蔵装置を装備したトロール漁船による遠洋漁業の開拓、

南氷洋における日本最初の捕鯨工船事業の創始など、新技術導入と化学的・合理的な経営に

よって、今日の水産日本の礎を築く。 

 


 

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製鉄所建設物語 / なぜ八幡に決まったのか

日本の近代製鉄所の建設地が、どのようにして八幡に決まったのかを紹介します。
 
製鉄所建設計画
日清戦争後、軍備増強と産業資材用鉄鋼生産の増大を図るため、1896年(明治29年)に
第9回帝国議会で製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
その内容は日清戦争前に「野呂景義」が提案した製鐵所建設構想と異なり、
和田維四郎(わだ つなしろう)による、銑鋼一貫の巨大製鉄所構想であった。

初代長官の山内提雲の後任で、2代目の長官となった和田維四郎が、製鉄所創立の
中心的な役割を果たす

 

   
     和田維四郎  大島道太郎

技監は本来なら、日本で初めてコークス炉を使った製鉄法を成功させ、日清戦争前まで
製鉄所建設構想を作り上げた「野呂景義」が考えられるが、初代長官の山内が
大島道太郎」を任命した。大島道太郎は、近代製鉄の父・大島高任の長男。
総予算額650万円、その中に清国から受け取った賠償金のうち58万円が含まれる。
 
製鉄所建設地の検討

1)17の地域が候補地
1896年に政府によって17の地域が候補地として選ばれた。その中の3地域が北九州。
青森 釜石 塩釜 千葉 品川 鶴見 静岡 和歌山 梅田 尾道
呉 大竹 大牟田 長崎 大里(門司) ⑯板櫃(小倉) 八幡(八幡)
各候補地とも郷土に近代的な製鉄所をと意気込み誘致活動を展開し、
お互いに一歩もゆずらなかった。

2)
現地調査の実施
大島道太郎が候補地決定の責任者となり、調査団を率いて候補地を調査した。
その立地の条件は、①広大な建設用地が安価で得られる ②海上・陸上の交通の便がよい
② 原料と燃料が得やすいことが考慮された。
調査の結果、4ヶ所に絞られる。

(広島県)②大里(門司)③板櫃(小倉)④八幡(八幡)

 

   
    呉         板櫃 & 大里      八 幡

 
原料と燃料入手の点で呉は落ちて、北九州の三村が残る。
 
3)大里が第一候補
その中で、大島は、石炭に入手には洞海湾(八幡)だが、若松港の水深が浅く到底大型船を
出入りさせることができないと、一旦は「大里第一」とした。
大里は、筑豊炭田を背後に持ち、アシが生い茂る湿地帯が多い土地、海陸の交通条件に優れ、
八幡が足元に及ばない人口を抱えていた。
更に、江戸時代に村の一角から鉄鉱石と銅鉱石が採掘されていたことも影響している

4)八幡の立地に向けての取組
これに対して、若松築港会社会長の安川敬一郎は、水深を深くすれば大里に勝ると確信し、
起死回生の政治工作を行う。
旧黒田藩主・金子堅太郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一の同意を得、渋沢栄一と後の長官和田維四郎
を通じて、大島と長官山内堤雲の説得を依頼した。

こうした安川敬一郎の運動が紅を奏し、用地買収担当の製鉄所事務次官に八幡出張の
辞令が出された。

 

  
  安川敬一郎      芳賀種義

 
当時の八幡村は、人口2,000人足らずの農業と漁業を営む寒村であった。
製鉄所建設用地確保のため、八幡村の芳賀種義村長「八幡村に製鉄所を、日本の
鉄づくりは八幡から」
と熱心に村民を説得し、100万m2もの広大な土地を地価の

半値で売り払うことに協力してもらった。
 
官営製鐵所が八幡に決定
こうした後、1897年2月6日「官営製鉄所は福岡県 下筑前国遠賀郡 八幡村に置く」
と公布された。

             製鉄所建設前の八幡村

 

そして、1901年の創業に向けての建設工事が開始される。

 


 

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安川敬一郎物語

 
日本の産業近代化産業の歴史をつくった安川敬一郎
石炭産業から始まり、港湾、鉄道、紡績、製鉄、電気、窯業と様々な分野で中心的な役割を
果たし日本の産業近代化に最も貢献した一人です。
 
福岡藩士・徳永貞七の四男として1849年(寛永2年)に福岡県
西村で生まれる。徳永家には四人の男子がいた。長男以外は同藩士
安川、松本、幾島家の養子となりそれぞれの家督を継ぎました。
四男の敬一郎は15歳で安川岡右衛門の養子となり、16歳から家督
を継ぎました。兄の戦死後、生計を維持するために大学を中退して
長男と次男が共同経営していた炭坑事業に参画し、その事業家として
の歴史が始まります。
その功績を下記に示します、まさにこれは北九州での産業発展の歴史であり、
日本の産業近代化の歴史の1ページでもあります。
 
・1877年(明治10年) 芦屋に安川商店を開設し、石炭販売を直営した。
・1880年(明治13年) 高尾炭坑を経営開始 良質の粘結炭を算出
・1983年(明治16年) 平岡浩太郎と共に赤池炭鉱開発に着手
・1887年(明治20年) 大城炭坑を買収
・1889年(明治22年) 筑豊工業鉄道設立に参画
・1890年(明治23年) 若松築港会社設立の参画
・1895年(明治28年) 官営製鐵所設立が衆議院で可決
            その後八幡に立地すべく「洞海湾拡張計画」を打ち出し、
                                         誘致活動を展開した
・1897年(明治30年) 八幡が官営製鐵所建設地となる
・1899年(明治32年) 安川商店と松本商店が合併し安川松本商店となる
                 高尾炭坑を八幡製鉄所に売却
・1901年(明治34年) 官営製鐵所創業開始
・1908年(明治41年) 明治鉱業を設立し、石炭業経営の基盤を確立
・1909年(明治42年) 明治専門学校(現在の九州工業大学)開校
・1911年(明治44年) 明治紡績合資会社を設立(明治、赤池、豊国炭坑を合併)
・1915年(大正4年) 合資会社安川電機製作所開業
・1917年(大正6年) 九州製鋼株式会社を設立(日本と中国の合弁会社である漢治萍公司が
                                          生産する銑鉄を原料とする製鉄会社)
・1918年(大正7年) 黒崎窯業株式会社を設立(九州製鋼の平炉用珪石煉瓦生産を目的)
・1920年(大正9年) 明治専門学校を政府所管に以降
・1928年(昭和3年) 九州製鋼株式会社の経営を八幡製鐵所に委託(1934年製鉄業から手を引く)
・1920年(大正9年) 男爵の爵位を受ける
・1924年(大正13年)貴族院議員となる
・1934年(昭和9年) 死去 86歳