田中熊吉 「高炉の神様」
生涯現役を貫いた「高炉の神様」田中熊吉
官営八幡製鐵所の東田第一高炉の建設時1899年(明治32年)に職工として入社。
100歳まで生きると宣言し、生涯現役を貫き通し、1972年(昭和47年)の数え年の100歳で
人生の幕を閉じる。
人生の幕を閉じる。
生涯を高炉に捧げ、「高炉の神様」としてその功績を讃えられている、「田中熊吉」人生ドラマも
紹介していきますのでお楽しみにしておいてください。
紹介していきますのでお楽しみにしておいてください。
高見神社
殆ど知られていない世界遺産の裏側!
明治神宮の兄貴分である 高見神社の物語り❗
八幡製鐵所の守護神であり、現在もなお北九州の産業の安全を守り続けている高見神社は、
製鉄所建設前は旧本事務所の近くにあった。
貯水池や官舎を作るための用地確保のために移設を余儀なくされ、製鉄所建設時に豊山八幡宮
(千草ホテルの近く)に仮住まいすることになった。
そして、官営製鐵所と他の民間企業を合併し、日本製鐵㈱をなった昭和8年に現在の地に新しい
神社造営が決まり、10年の歳月をかけて昭和19年に現在の高見神社が完成した。
高見神社は製鉄所建設前から八幡の人々の氏神として、製鉄所建設後は製鉄所の守護神として
日本の産業発展を見守り続けている。
高見神社も今回の世界遺産登録の大きな功労者である。
安川敬一郎
日本の産業近代化産業の歴史をつくった安川敬一郎
石炭産業から始まり、港湾、鉄道、紡績、製鉄、電気、窯業と様々な分野で中心的な役割を
果たし日本の産業近代化に最も貢献した男。
福岡藩士・徳永貞七の四男として1849年(寛永2年)に福岡県西村で生まれる。
四男の敬一郎は15歳で安川岡右衛門の養子となり、16歳から家督を継ぐ。
兄の戦死後、生計を維持するために大学を中退して長男と次男が共同経営していた炭坑事業に
参画し、その事業家としての歴史が始まる。
参画し、その事業家としての歴史が始まる。
・1877年(明治10年) 芦屋に安川商店を開設し、石炭販売を直営した。
・1880年(明治13年) 高尾炭坑を経営開始 良質の粘結炭を算出
・1983年(明治16年) 平岡浩太郎と共に赤池炭鉱開発に着手
・1887年(明治20年) 大城炭坑を買収
・1889年(明治22年) 筑豊工業鉄道設立に参画
・1890年(明治23年) 若松築港会社設立の参画
・1895年(明治28年) 官営製鐵所設立が衆議院で可決
その後八幡に立地すべく「洞海湾拡張計画」を打ち出し、誘致活動を展開した
・1897年(明治30年) 八幡が官営製鐵所建設地となる
・1899年(明治32年) 安川商店と松本商店が合併し安川松本商店となる
高尾炭坑を八幡製鉄所に売却
・1901年(明治34年) 官営製鐵所創業開始
・1908年(明治41年) 明治鉱業を設立し、石炭業経営の基盤を確立
・1909年(明治42年) 明治専門学校(現在の九州工業大学)開校
・1911年(明治44年) 明治紡績合資会社を設立(明治、赤池、豊国炭坑を合併)
・1915年(大正4年) 合資会社安川電機製作所開業
・1917年(大正6年) 九州製鋼株式会社を設立(日本と中国の合弁会社である漢治萍公司が
生産する銑鉄を原料とする製鉄会社)
生産する銑鉄を原料とする製鉄会社)
・1918年(大正7年) 黒崎窯業株式会社を設立(九州製鋼の平炉用珪石煉瓦生産を目的)
・1920年(大正9年) 明治専門学校を政府所管に以降
・1928年(昭和3年) 九州製鋼株式会社の経営を八幡製鐵所に委託(1934年製鉄業から手を引く)
・1920年(大正9年) 男爵の爵位を受ける
・1924年(大正13年)貴族院議員となる
・1934年(昭和9年) 死去 86歳
田中熊吉 「高炉の神様」
生涯現役を貫いた「高炉の神様」田中熊吉
官営八幡製鐵所の東田第一高炉の建設時1899年(明治32年)に職工として入社。
100歳まで生きると宣言し、生涯現役を貫き通し、1972年(昭和47年)の数え年の100歳で
人生の幕を閉じる。
人生の幕を閉じる。
生涯を高炉に捧げ、「高炉の神様」としてその功績を讃えられている、「田中熊吉」人生ドラマも
紹介していきますのでお楽しみにしておいてください。
紹介していきますのでお楽しみにしておいてください。
北九州の観光情報 / 猿喰新田
野呂景義 近代鉄鋼技術の父
近代鉄鋼技術の父 野呂景義
1854年名古屋橦木町生まれ、1882年東京大学採鉱冶金学科を卒業し、
1895年~1889年欧米に留学した。
1895年~1889年欧米に留学した。
それから野呂景義の製鉄所ストーリーが始まる。
わずか2年で閉鎖した官営釜石製鉄所
1880年(明治13年)官営釜石製鉄所が操業開始したが、
原料が近くに豊富に存在しないことや技術を全てイギリスから輸入したため、
わずか2年で閉鎖
1880年(明治13年)官営釜石製鉄所が操業開始したが、
原料が近くに豊富に存在しないことや技術を全てイギリスから輸入したため、
わずか2年で閉鎖
釜石鉱山田中製鉄所が発足
その後1887年(明治20年)釜石鉱山田中製鉄所が発足し、操業を開始する。
その後1887年(明治20年)釜石鉱山田中製鉄所が発足し、操業を開始する。
1894年(明治27年)に野呂景義が顧問として迎えられ、日本初、コークス炉を利用した
銑鉄作りが成功した。

銑鉄作りが成功した。

野呂が参画した製鉄事業調査会
1995年製鉄事業調査会は発足。
1995年製鉄事業調査会は発足。
政府は野呂に一刻も早い製鉄所の実現を期待した。
野呂は、そうした性急な方針には反対であった。
「新しい製鉄所を立ち上げるには、釜石製鉄所の失敗の原因を徹底的に調査する必要がある」
成功は失敗から学ぶ。これが野呂の技術者としての信念であった。
成功は失敗から学ぶ。これが野呂の技術者としての信念であった。
足掛け2年釜石に通い、失敗の原因として
① 不十分な原料調査 ②全て海外技術に依存
と結論づけた。
野呂の新しい製鉄所建設構想は、始めに導入する技術は小さくてよい、技術そのものよりも、
外国技術を改良したり、それぞれの長所を取り入れる力、いわば技術を生かす「技術力」を重視した。
外国技術を改良したり、それぞれの長所を取り入れる力、いわば技術を生かす「技術力」を重視した。
しかし、大型製鉄所を目指す政府方針に合わず、野呂は失脚した。
その後野呂は、鉱山や製鉄所で技術指導を続ける。
東田第一高炉火入れ
1901年2月、ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始。
1901年2月、ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始。
しかし、その滑り出しは惨憺たる状況であった。
火入れの翌日1.2トン出銑したが、原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、
羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
その後対策を行って、操業を進めるもきわめて不良、予定出銑量160トン/日に対して
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、
銑鉄の品質は概して粗悪であった。
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、
銑鉄の品質は概して粗悪であった。
そしてついに1902年5月に休止した。
急遽、野呂景義が呼び出され、製鉄所立上げが始まる
野呂の門下生である製銑部長服部斬が記した操業記録と現場を徹底的に調査した。
その結果、高炉の構造、高炉装入物の配合、炉内における装入物の溶結、数度に及んだ
送風停止が原因であると指摘。
送風停止が原因であると指摘。
結局、操業不調の主な要因は、炉床の冷え込みと使用するコークスの品質に起因することは
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。
抜本的な設備改善と新しい技術の導入
炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。
炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。
コークス製造において、「二瀬炭に無煙炭もしくは三池炭を配合して、堅質で大塊のものを製造」
という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって
積極的な改善が進められた。
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と操業指導が
必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって
積極的な改善が進められた。
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と操業指導が
必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
このように、我が国の自然的諸条件を軽視又は無視した技術の在り方が批判され、生産技術の
実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。
実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。
再火入れ
1903年7月23日に再度火入れされ、以後操業は快調で1910年6月2日まで連続稼働し、
2140日に亘って出銑を続けた。
2140日に亘って出銑を続けた。

八幡製鐵所創業の意義
野呂景義の汗と努力が実を結び、鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに
貢献することになった。
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける
原動力となっている。
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける
原動力となっている。
生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である。
北九州の観光情報 / 猿喰新田
洞海湾
●洞海湾の歴史
ゴルフツアー ~北九州・福岡・九州~
VIPな気分で贅沢なゴルフを楽しみましょう。 英 語
福岡や九州ではプロのトーナメントも沢山開催され、多くの素晴らしいゴルフ場があります。
そこで、外国のお客様にちょっと贅沢なゴルフツアーを行っています。
プレイをされないお客様に対しては、地元の観光や買い物で楽しんでいただいております。
そこで、外国のお客様にちょっと贅沢なゴルフツアーを行っています。
プレイをされないお客様に対しては、地元の観光や買い物で楽しんでいただいております。

●ゴルフ
ゴルフをされる場所やご希望のゴルフ場などを聞き、それに従って、外国のお客様に
最適のゴルフ場を提案し、手配を行います。
最適のゴルフ場を提案し、手配を行います。
ゴルフをされないお客様やゴルフの中日に観光をアレンジしております。
資格を持ったプロの観光ガイドが皆様を楽しい旅にご案内します。
ガイドは英語、中国語又は韓国語で対応します。
●宿泊の手配
ゴルフのプレイを考慮し、最適の宿泊施設をアレンジします。
●交通の手配
参加者の人数に合わせて、最適の貸切バスをアレンジします。
●その他
参加者の人数に合わせて、最適の貸切バスをアレンジします。
●その他
ゴルフ終了後の楽しい夕食、温泉、日本文化体験などご希望に応じてアレンジします。
お客様とのコミュニケーションは英語又は日本語で行います。
先ずは、E-mail 又は電話でお問合せください。
先ずは、E-mail 又は電話でお問合せください。
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お問合せ (日本語又は英語で対応します)
ジャパン九州ツーリスト(株) 福岡県知事登録旅行業 第3-688号
電話 093-521-8897 FAX 093-521-8898 Email info@japan-kyushu-tourist.com 〒802-0001 福岡県北九州市小倉北区浅野3-8-1 AIMビル6階 |
紫川取水場ポンプ室
近代化産業遺産 製鉄編
小倉北区の木町にある、新日鐡住金の紫川取水場ポンプ室。
一見すると教会か倉庫のように見えてしまう建物。
1918年建設され、現在も現役で製鉄所に工業用水を供給しているポンプ室。

当初、東洋製鉄(現在の新日鐵住金戸畑地区)が1918年(大正7)年に建設、
1921年(大正10)年に同社は八幡製鐵所に経営を委託、以後、戦前・戦後にわたる
経営体制の変遷を経て現在の新日鐵住金に至る。

機械類や、取水場から戸畑地区までの送水管は更新されているが、
ポンプ室建屋は建設当時のものが使われている。
・住 所 北九州市小倉北区木町2-4-10
・取水量 最大0.552 m/Sec
町中にある近代化産業遺産
小倉北区の木町にある、新日鐡住金の紫川取水場ポンプ室。
一見すると教会か倉庫のように見えてしまう建物。
1918年建設され、現在も現役で製鉄所に工業用水を供給しているポンプ室。

当初、東洋製鉄(現在の新日鐵住金戸畑地区)が1918年(大正7)年に建設、
1921年(大正10)年に同社は八幡製鐵所に経営を委託、以後、戦前・戦後にわたる
経営体制の変遷を経て現在の新日鐵住金に至る。

機械類や、取水場から戸畑地区までの送水管は更新されているが、
ポンプ室建屋は建設当時のものが使われている。
・住 所 北九州市小倉北区木町2-4-10
・取水量 最大0.552 m/Sec





























