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田中熊吉 「高炉の神様」

生涯現役を貫いた「高炉の神様」田中熊吉
 
私が尊敬する、日本の近代産業の礎を築いた一人「田中熊吉」を紹介します。


 

官営八幡製鐵所の東田第一高炉の建設時1899年(明治32年)に職工として入社。
100歳まで生きると宣言し、生涯現役を貫き通し、1972年(昭和47年)の数え年の100歳で
人生の幕を閉じる。
田中熊吉が建設から携わった東田第一高炉も、彼の没年に歴史の幕を閉じた。

現在では東田記念高炉をして残され、その歴史を後世に伝え続けている。

    
田中が建設に携わった高炉(初代)           田中の後を追って幕を閉じた高炉(10代目)
 

生涯を高炉に捧げ、「高炉の神様」としてその功績を讃えられている、「田中熊吉」人生ドラマも
紹介していきますのでお楽しみにしておいてください。

近代製鉄発祥の地/東 田

日本の産業はここから始り、そして未来のまちづくりもここから!

東田地区の今日までの歩み

1896年(明治29年)に国会で製鐵所設置が承認され、数ある候補地の中から八幡に
決定されました。
そして、1901年(明治34年)に八幡東田の地で官営八幡製鐵所が産声を上げ、
日本の本格的な産業の歴史の幕が開きました。
   

 
1972年(昭和47年)に東田第一高炉が休止するまでの東田地区はものづくりの中心地として
貢献してきた。
高度経済成長後、生産効率向上や物流革新のため、主要製鉄設備が海沿いの戸畑地区に
新設され、この広大な120ヘクタールの場所が遊休地となった。
 
新日鐵は北九州市ルネッサンス構想に基づく基盤整備に1994年(平成6年)に着手し、
道路や電気、水道、ガスなどを整備して企業誘致の基盤を整えた。
次の転機が、平成13年(2001年)の「北九州博覧祭2001」で、近代産業の発展と環境問題の
克服を経験した北九州市は「環境」博覧祭の主要テーマに揚げました。
 
それを機に東田地区の開発発展に「環境共生」を主要コンセプトにして、2003年に
「世界の環境都市」を目指す街づくりの基本構想となる「八幡東田グリーンビレッジ構想」を
策定し、2008年(平成21年)には「環境モデル都市」に認定されました。
 
新たな街づくりの「パークコンプレックスシティ構想」では、職・住・学・遊が融合した進化した
コンプレックスシティを目指して、情報産業を中心にした企業集積するエリアやマンション
などの居住エリア、商業施設エリアなど、120ヘクタールの土地をゾーンに分けて、
それぞれの目的に応じた街づくりに取り組みなした。
 
ゾーンを決める際に新たに設置されたのが、新駅(スペースワールド駅)や都市高速道路などの
アクセスはもちろん、開発エリアと周辺街区との調和を考慮しました。
例えば、両エリアを分断していたJR鹿児島本線の線路を移設・直線化し物理的にも開かれた
場所を生み出しました。
 
平成15年(2003年)には環境共生と低炭素型都市を目指す産官学民が協働した
「八幡東田グリーンビレッジ構想」がスタートしました。
この取組を支えるのがエネルギーの地産地消で、隣接する製鐵所のエネルギー基盤を活用し、
LNGによる電力供給をスタート(東田コジェネ)、電力は東田地区で利用し、蒸気熱は製鐵所で
再利用することで低炭素・効率的なエネルギー利用を実現しました。
 
又、日本初の試みとして、店舗・住宅・集客施設などにパイプラインを設置し、製鐵所で発生する
水素を供給し、エコファーム用の燃料として供給するほか、燃料電池車の水素ステーションにも
設置しました。
更に太陽光発電も将来的に設置し、電力・排熱・蒸気・水素などの様々な副産物の再利用を含め、
トータルマネージメントを発揮し、一般地域に比べて約
30%のCO2削減を達成しています。


 関連リンク】
近代化産業遺産 in 北九州
近代化産業遺産 製鉄編

北九州の産業観光ツアー

 

野呂景義  近代鉄鋼技術の父

近代鉄鋼技術の父 野呂景義
1854年名古屋橦木町生まれ、1882年東京大学採鉱冶金学科を卒業し、
1895年~1889年欧米に留学した。
それから野呂景義の製鉄所ストーリーが始まる。
 
わずか2年で閉鎖した官営釜石製鉄所
1880
年(明治13年)官営釜石製鉄所が操業開始したが、
原料が近くに豊富に存在しないことや技術を全てイギリスから輸入したため、
わずか2年で閉鎖
 
釜石鉱山田中製鉄所が発足
その後1887年(明治20年)釜石鉱山田中製鉄所が発足し、操業を開始する。
1894年(明治27年)に野呂景義が顧問として迎えられ、日本初、コークス炉を利用した
銑鉄作りが成功した。
 
野呂が参画した製鉄事業調査会
1995
製鉄事業調査会は発足。
政府は野呂に一刻も早い製鉄所の実現を期待した。
野呂は、そうした性急な方針には反対であった。
「新しい製鉄所を立ち上げるには、釜石製鉄所の失敗の原因を徹底的に調査する必要がある」
成功は失敗から学ぶ。これが野呂の技術者としての信念であった。
足掛け2年釜石に通い、失敗の原因として
① 不十分な原料調査 ②全て海外技術に依存
と結論づけた。
野呂の新しい製鉄所建設構想は、始めに導入する技術は小さくてよい、技術そのものよりも、
外国技術を改良したり、それぞれの長所を取り入れる力、いわば技術を生かす「技術力」を重視した。
しかし、大型製鉄所を目指す政府方針に合わず、野呂は失脚した
 
その後野呂は、鉱山や製鉄所で技術指導を続ける。
 
東田第一高炉火入れ
1901
年2月、ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始。
しかし、その滑り出しは惨憺たる状況であった。
火入れの翌日1.2トン出銑したが、原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、
羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
その後対策を行って、操業を進めるもきわめて不良、予定出銑量160トン/日に対して
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、
銑鉄の品質は概して粗悪であった。
そしてついに1902年5月に休止した。 

急遽、野呂景義が呼び出され、製鉄所立上げが始まる
野呂の門下生である製銑部長服部斬が記した操業記録と現場を徹底的に調査した。
その結果、高炉の構造、高炉装入物の配合、炉内における装入物の溶結、数度に及んだ
送風停止が原因であると指摘。
結局、操業不調の主な要因は、炉床の冷え込みと使用するコークスの品質に起因することは
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。 
 
抜本的な設備改善と新しい技術の導入
炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。
コークス製造において、「二瀬炭に無煙炭もしくは三池炭を配合して、堅質で大塊のものを製造」
という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって
積極的な改善が進められた。     
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と操業指導が
必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
このように、我が国の自然的諸条件を軽視又は無視した技術の在り方が批判され、生産技術の
実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。 

 
再火入れ
1903年7月23日に再度火入れされ、以後操業は快調で1910年6月2日まで連続稼働し、
2140日に亘って出銑を続けた。 
 
八幡製鐵所創業の意義
野呂景義の汗と努力が実を結び、鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける
原動力となっている。
生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である。

高見神社

殆ど知られていない世界遺産の裏側!
      明治神宮の兄貴分である 高見神社の物語り❗

八幡製鐵所の守護神であり、現在もなお北九州の産業の安全を守り続けている高見神社は、
製鉄所建設前は旧本事務所の近くにあった。

  
      現在の高見神社                      建設当時の製鉄所

貯水池や官舎を作るための用地確保のために移設を余儀なくされ、製鉄所建設時に豊山八幡宮
(千草ホテルの近く)に仮住まいすることになった。

そして、官営製鐵所と他の民間企業を合併し、日本製鐵㈱をなった昭和8年に現在の地に新しい
神社造営が決まり、10年の歳月をかけて昭和19年に現在の高見神社が完成した。

高見神社は製鉄所建設前から八幡の人々の氏神として、製鉄所建設後は製鉄所の守護神として
日本の産業発展を見守り続けている。

高見神社も今回の世界遺産登録の大きな功労者である。

北九州の観光情報 / 猿喰新田

江戸時代に襲った大飢饉から、人々を救うため、庄屋・石原宗祐が私財を投じ、
10年もの歳月をかけ、猿喰湾を埋め立てて作った猿喰新田。 
それから、人々に受け継がれ、
今もなお、その田んぼで稲作が営まれています。 
先人の偉業に触れる歴史遺産に触れたり、日本に原風景を楽しめる場所です。

      

 

田中熊吉 「高炉の神様」

生涯現役を貫いた「高炉の神様」田中熊吉
 
私が尊敬する、日本の近代産業の礎を築いた一人「田中熊吉」を紹介します。


 

官営八幡製鐵所の東田第一高炉の建設時1899年(明治32年)に職工として入社。
100歳まで生きると宣言し、生涯現役を貫き通し、1972年(昭和47年)の数え年の100歳で
人生の幕を閉じる。
田中熊吉が建設から携わった東田第一高炉も、彼の没年に歴史の幕を閉じた。

現在では東田記念高炉をして残され、その歴史を後世に伝え続けている。

    
田中が建設に携わった高炉(初代)           田中の後を追って幕を閉じた高炉(10代目)
 

生涯を高炉に捧げ、「高炉の神様」としてその功績を讃えられている、「田中熊吉」人生ドラマも
紹介していきますのでお楽しみにしておいてください。

安川敬一郎

日本の産業近代化産業の歴史をつくった安川敬一郎
石炭産業から始まり、港湾、鉄道、紡績、製鉄、電気、窯業と様々な分野で中心的な役割を
果たし日本の産業近代化に最も貢献した男。
 
福岡藩士・徳永貞七の四男として1849年(寛永2年)に福岡県西村で生まれる。
徳永家には四人の男子がいた。長男以外は同藩士安川、松本、幾島家の養子となり
それぞれの
家督を継いだ。
四男の敬一郎は15歳で安川岡右衛門の養子となり、16歳から家督を継ぐ。
兄の戦死後、生計を維持するために大学を中退して長男と次男が共同経営していた炭坑事業に
参画し、その事業家としての歴史が始まる。
 
その功績を下記に示します、まさにこれは北九州での産業発展の歴史であり、
日本の産業近代化の歴史に一ページでもあります。
 
・1877年(明治10年) 芦屋に安川商店を開設し、石炭販売を直営した。
・1880年(明治13年) 高尾炭坑を経営開始 良質の粘結炭を算出
・1983年(明治16年) 平岡浩太郎と共に赤池炭鉱開発に着手
・1887年(明治20年) 大城炭坑を買収
・1889年(明治22年) 筑豊工業鉄道設立に参画
・1890年(明治23年) 若松築港会社設立の参画
・1895年(明治28年) 官営製鐵所設立が衆議院で可決
              その後八幡に立地すべく「洞海湾拡張計画」を打ち出し、誘致活動を展開した
・1897年(明治30年) 八幡が官営製鐵所建設地となる
・1899年(明治32年) 安川商店と松本商店が合併し安川松本商店となる
                高尾炭坑を八幡製鉄所に売却
・1901年(明治34年) 官営製鐵所創業開始
・1908年(明治41年) 明治鉱業を設立し、石炭業経営の基盤を確立
・1909年(明治42年) 明治専門学校(現在の九州工業大学)開校
・1911年(明治44年) 明治紡績合資会社を設立(明治、赤池、豊国炭坑を合併)
・1915年(大正4年) 合資会社安川電機製作所開業
・1917年(大正6年) 九州製鋼株式会社を設立(日本と中国の合弁会社である漢治萍公司が
                                          生産する銑鉄を原料とする製鉄会社)
・1918年(大正7年) 黒崎窯業株式会社を設立(九州製鋼の平炉用珪石煉瓦生産を目的)
・1920年(大正9年) 明治専門学校を政府所管に以降
・1928年(昭和3年) 九州製鋼株式会社の経営を八幡製鐵所に委託(1934年製鉄業から手を引く)
・1920年(大正9年) 男爵の爵位を受ける
・1924年(大正13年)貴族院議員となる
・1934年(昭和9年) 死去 86歳

北九州の観光情報 / 猿喰新田

江戸時代に襲った大飢饉から、人々を救うため、庄屋・石原宗祐が私財を投じ、
10年もの歳月をかけ、猿喰湾を埋め立てて作った猿喰新田。 
それから、人々に受け継がれ、
今もなお、その田んぼで稲作が営まれています。 
先人の偉業に触れる歴史遺産に触れたり、日本に原風景を楽しめる場所です。

      

 

洞海湾

●洞海湾の歴史

江戸時代までは遠浅で水深が浅くクルマエビなどの漁場だった。
堀川と遠賀川を介して筑豊と繋がっているため、
1898年に若松港が開港し石炭の積出港として繁栄する。

                                      堀 川                                若松港 


それから
1901年に官営八幡製鉄所が操業を開始し、多くの産業が洞海湾の周りで発達する。
      

その発達の過程で誰も経験したことのない深刻な公害問題で洞海湾は汚染された。
その後、環境技術の開発も含めて抜本的な対策を行い、短期間のうちに公害問題と克服し、
現在では環境未来都市・北九州となっている。

     

●現在の洞海湾の様子

     
    洞海湾から望む皿倉山                      奥洞海から望む若戸大橋

   
              若松南海岸                                若松南海岸

  
                     奥洞海                                 東 田  
                          洞海湾の夜景                            洞海湾の夜景

清虚

今も部埼で海の安全を守り続けている『清虚』
九州の最北端の部崎は航海の難所で多くの人が遭難していました。
大分県国見町の旅僧「清虚」は高野山に行く途中、これを知り青浜に降り、この難所から人を救おうと
燈明台を建て、日中は托鉢をしながら夜は火を焚き続けた。

雨の日も風の日も休むことなく13年間焚き続け74歳で村人に見守られて世を去りました。
このあとも村人に引き継がれて、明治5年の部埼灯台(洋式灯台)ができるまで続けられた。
海辺には清虚の大きな像が1972年に建てられいまも海を見守っています。


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