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Mount Sarakura
2026/03/20
Kitakyushu travel guideMount Sarakura is the best scenic spot in Kitakyushu City. The height of the mountain is 622 meters from sea level. At the top you are presented with a magnificent and spectacular view of Kitakyushu. In 10 minutes, you can reach the summit from the Cable Car Station using the Cable car and the Slope car. We offer the most dynamic night view in the World. The dynamic city where one million people are living and working, is creating the beautiful Night view which you have never seen before. The night view from the mount Sarakura is chosen the three major Night View in Japan along with Nagasaki from Mount Inasa. The area of Night view is the largest in the World ; about 40km east to west and 10km south to north And also the number of lighting to create the night view is the largest in the World. Day time view We offer you the magnificent and spectacular view. Summit of the mountain Observatory area Top of the mountain Munakata and Ashiya Yahata and Wakamatsu Tobata, Kokura and Moji From the Cable car From the Cable car Kokura Higashida Wakato Bridge Kanmonkyo Bridge Nippon Steel / Yawata Works Yahata area Tobata area …
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Kokura Castle
2026/03/22
Kitakyushu travel guideKokura was the transportation hub from Honshu and all areas of Kyushu during Edo period from 17th to 19th century. The Castle town was constructed in the Kokura and Kokura Castle was build in 1602 and spent 7 years construction at the north side of Kokura facing to Kanmon strait and next to Murasaki river. The height of Castle tower is 6th tallest in Japan after Himeji Castle. The castle had a fivefold and six layered donjon and it was built in the architectural style called “Kara-zukuri”. You can take many photos of traditional Japanese scenery that you have never seen before. Castle tower Moat around Castle tower Around Castle
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Hakata Gion Yamakasa Festival
2025/12/08
Fukuoka travel guideThis Tourist information is created by Japan KYUSHU Tourist for enjoyment of your travel. We are a Travel Agent in Fukuoka specializing in Kyushu. When you have an idea or a plan for traveling in Kyushu, Japan, please contact us by sending an Enquiry. One of the most exciting summer festival in Japan. takes place from July 1 to 15 and is held at Kushida-jinja Shrine in Hakata. There are two kinds of festival floats called Yamakasa. One is Kazari-yamakasa with 15 meters high, a gorgeously decorated festival float which is decked with elaborate dolls and castles. The other is Kakiyamakasa with 6 meters high, a simply decorated festival float which is made for carrying on the shoulders and used in the Oiyama race. The festival features the exciting race called Oiyama climaxing on July 15. Teams of men clad in short happi-coats and loincloths dash down the city street at full speed carrying their own one-ton Kakiyamakasa on their shoulders along a 5-kilometer course. A spectacle that must be seen to be believed. Home Customized Private tour Christian Pilgrimage tour Golf tour What our Customers have to say About us Contact us Terms and Conditions Privacy Policy Staff Blog
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Environmental Future city Kitakyushu
2026/03/18
Kitakyushu travel guideWe are a travel agency in Fukuoka specializing in Kyushu, Japan. This information is provided by Japan KYUSHU Tourist to support your journey. Kitakyushu is the city of leading Global Environment Kitakyushu-city has the long history of Environmental improvement since the pollution problem experienced in 1960′. Now Kitakyushu-city is leading World environment as the Environmental Future City selected by Japanese Government and also designated as the first ‘ Model City for Green Growth ‘ in Asia by the Organization for Economic Co-operation and Development (OECD) in 2011. The history of Environmental improvement The History has commenced in 1901. The city once experienced the worst air pollution in Japan and saw Dokai Bay turned into a “sea of death.” But it regained blue skies after overcoming its pollution problem by the efforts of city, companies as well as the women’s association. Kitakyushu City, once known as a “town of pollution,” now plays the role of the driving force in creating a recycling-oriented society in Japan making use of the experience and know-how it accumulated in the process of overcoming its pollution in order to provide international cooperation. The city grew as an industrial city after the establishment of Yawata Steel Works in 1901. It led Japan during the period of …
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鉄鋼の産業発展物語 第4話 / 第一次世界大戦後に鉄鋼需要が大幅に伸びる
2021/04/03
鉄鋼の産業発展物語1914年に勃発し、1918年にドイツの敗北をもって集結した第一次世界大戦は、それまで 日露戦争の反動不況に悩んでいたわが国に未曾有の「大戦景気」をもたらした。 そして、鉄鋼需要産業である、金属・化学・造船・機械等の重工業や電力業の伸びが飛躍的に 加速した。 鉄鋼需要の70%を輸入に頼っていたわが国は、第一次世界大戦により各国が輸出禁止措置を とることによって、空前の「鉄餓死」に見舞われた。 そこで、八幡製鐵所の第三拡張計画を行うことになる。 第三期拡張計画(1917年〜1927年) 第二期拡張計画で年産能力35万トンとなったが、これを65万トンに一気に倍増する計画、 予算は3,450万円で1917年から拡張した。 主な設備 東田第5高炉、東田第6高炉、黒田式コークス炉新設(2基)、第2製鋼工場拡張 坩堝鋼工場拡張、鍛鋼工場及びバネ鋼工場拡張、珪素鋼板工場、薄板及びブリキ工場新設 ドロマイト工場新設、発電所及び変電所新設、岸壁整備、河内貯水池 本事務所移転 初代本事務所 2代目本事務所 1899年に建設された本事務所は、製鉄所拡張に伴い手狭となり、1922年に2代目に 本事務所に移設された。 八幡製鐵所周辺の主な歩み 小倉製鋼所 アインシュタイン来日 戸畑市役所 ・1917年 八幡市誕生、東洋陶器(TOTOの前身)創業 神戸製鋼所門司工場(神鋼メタルプロダクツの前身) ・1918年 小倉製鋼所(住友金属工業、新日鐵住金の前身)創業、黒崎窯業(クロサキハリマの前身) 山九運輸(山九の前身)創業、鈴木商店日本冶金(東邦金属の前身)創業 明治紡績創業 ・1919年 桑木あやお(明治専門学校教授)日本人で初めてアインシュタインに会い 相対性理論を日本に広める 戸畑競馬場が三萩野へ移る ・1921年 門司港 欧州航路と上海航路を開設 ・1922年 アインシュタインが来日し講演活動を行う、門司に宿泊、中原海水浴場開設 ・1923年 関東大震災 約105,000人が犠牲 ・1924年 戸畑市が誕生 ・1927年 門司西海岸の大規模港湾が完成 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ
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鉄鋼の産業発展物語 第5話 / 河内貯水池物語
2021/04/02
鉄鋼の産業発展物語世界遺産登録の引き金となった土木遺産そして裏側に秘められた物語! 河内貯水池は、八幡製鐵所の第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919年(大正8年) に竣工し、8年の歳月をかけて、延90万人の人々の手で1927年(昭和2年)に完成した。 その総指揮者が、土木技師の沼田尚徳、当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」と いうヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と情熱を注いだ大事業。 この美しい景観の裏側に秘められた、「愛と悲しみ、そして情熱」の河内貯水池物語を 紹介します。 水戸藩の沼田家 1875年(明治8年)、水戸藩に代々仕えた武家の家系で生まれた。 沼田家は尊王攘夷派/天狗党結成の発起人の一人である伯父沼田順次郎、 藩幹部の筆頭書記官で祖父沼田久次郎を持ち、そして祖父とともに「大発勢」と呼ばれる 討伐隊に加わり、明治維新後は教育者の道を歩んだ沼田順三郎の長男として生まれた。 青年時代 1894年(明治24年)旧制第一高等中学に入学、そして新たに新設された京都帝国大学に 1897年(明治30年)に入学し土木技術や鉄筋コンクリート技術学び、更に水道施設や 琵琶湖疏水などの技術にも関心を持っていたと言われている。 官営八幡製鐵所に入社 1900年(明治33年)に京都帝国大学を第一回生として卒業、当時建設中だった 官営八幡製鐵所に土木技師として入社した。 1901年(明治34年)に東田第一高炉に火が入り、日本で初めての銑鋼一貫製鐵所が操業を開始する。 1902年(明治35年)に技師を命じられ、1911年(明治44年)に修築科長となり、 1915年(大正4年)にはアメリカとイギリスに出張した。 手がけた工事は繋船壁築造工事に始まり、40万坪の洞岡埋築、くろがね線建設そして 河内貯水池や養福寺貯水池建設といずれも当時の日本で最大級の土木工事ばかりである。 最初の挫折 1916年(大正5年)に竣工した下大谷貯水池が、わずか1ヶ月余りの後に豪雨で脆くも決壊し、 製鉄所や付近の住宅地域に多大な被害を及ぼし住民1名の尊い命を奪う大惨事を引き起こした。 事故の原因は堰堤の強度不足であった。事故により尊い命が犠牲になったことが大きな 心の痛手となり、その後この教訓から、建設現場を自らの足で歩き自分の目で確認する 現場第一主義の仕事スタイルを育んでゆく。 渾身の大事業、河内貯水池 「土木は悠久の記念碑」 製鉄所第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919年(大正8年)に竣工し、 8年の歳月をかけて1927年(昭和2年)に完成した。 当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく 英知と情熱を注いていく。 かつての河内地域は、八幡製鐵所から南10㎞ほど谷あいの31戸が暮らす 自然豊かで平穏な農村、また都市の児童の山村留学も受入れている教育先進地域。 その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。 ダムには当時最新の土木技術をふんだんに用い、一方で現場の石材や自社鋼材を 用いた独自の設計で土木構造物への新しい挑戦をした。 更に環境にも優しい工法を積極的に採用し、将来市民の憩いの場所をすべく、 橋から取水塔、管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。 このことは、先祖代々の土地と故郷の美しい自然を提供し、建設に協力を惜しまぬ 村人へ何としても恩返しでもあった。 安全管理でも最新の配慮がなされ、当時の西日本最大級の難工事にも関わらず8年の 建設期間中1名の死者も出さなかった。 80年経過した今でも給水の本来の機能を果たしながら、憩いの場として多くの人達に 親しまれている。 独特の英知を凝らして作った堰堤ヨーロッパの古城をイメージ 当時コンクリートは高価の為、粗石を混ぜて使用、銅板を内部に入れた伸縮継手で 亀裂を防止した。 工事段階での型枠代わりに石壁をつくり、ダム完成の耐久性を確保。 使用した切石は12万個、加工時発生した小さな石も、付帯建築物に張付けて 美観に優れたダムを作り上げた。 悲しみを乗り越えて 河内貯水池建設中、沼田尚徳は現場では明るく振る舞っていたが、数々の悲しみを心に 押し潜めていた。山の神はこの大事業と引き換えにかけがえのない家族を貢ように強いて いたようでもあった。父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが 妻泰子。しかし、最愛の妻もダムの完成を待たずして猩紅熱でこの世を去ってしまった。 その後母も亡くなり、家族をダムが人柱として飲み込んでしまったような悲劇であった。 河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、 妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。 碑の両面には、日本語と英語でその思いが刻まれている。 日本語 (河内貯水池側) 英 語(神社側) 【日本語】 愛する妻の魂はどこにあるのか。麗しきあの人と今は世を隔て、 素晴らしき日々は夢に帰してしまった。散り行く桜の前にたたずむと断腸の思い。 【英 語】 IN MY MEMORY OF MY LATE BELOVED WIFE MRS. YASUKO NUMATA THROUGH WHOSE SELF-SACRIFICE AND UNDER GOD’S BLESSING I HAVE ENABLED TO CONSTRUCT KAWACHI WATER WORKS. 企業利益より社会貢献 沼田尚徳の美学 実直でロマンティストの沼田尚徳は、営利栄達にはあまり縁がなかった。これほどの大事業を 成功させ、製鉄所と八幡市の発展の礎を築いき、勲三等瑞宝章まで授与され、製鉄所では 土木部長でありながら製鉄所長官に次ぐ処遇を受けていた。 にも関わらず、1930年(昭和5年)に55歳の誕生日を待たずして静かに勇退した。 その後、八幡、戸畑、若松市の委託として三市の上水道整備を指導し多大な貢献をし、 日本最大の軍事工場であった小倉陸軍造兵廠の土木関連業務も手がけたが、 1934年(昭和9年)に全ての職を辞し田舎に陰棲した。 遠 想 河内貯水池の堰堤を見下ろす小高い場所にヨーロッパの古城を模したと言われる管理事務所が 建っている。その出入り口に沼田尚徳の「遠想」の言葉を刻み込んだ石の掲額が残されている。 ここから河内貯水池を静かに見下ろしながら、遠く未来の想いを馳せているに違いない。 その未来の姿はどのようなものであったのであろうか。それは百年経った今でも人々の 潤し続ける河内貯水池の姿、そして彼が残した礎の上にいつまでも成長を続ける 日本の未来だったのではなかろうか。 本投稿は、西日本ペットボトルリサイクルの千々木亨氏の論文 鉄都に生きる男たちから 引用させてもらいました。 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ
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鉄鋼の産業発展物語 第6話 / くろがね線物語
2021/04/01
鉄鋼の産業発展物語戸畑と八幡を結八幡製鐵所の専用鉄道 八幡製鐵所は、戸畑で操業していた東洋製鐵と1921年に合併した当時から、戸畑地区で生成する 熔銑を船舶で八幡へと輸送していたが、海上輸送のリスクと不経済性が指摘されていた。 一方八幡地区では、高炉の溶銑をつくるときの副産物である鉱滓(スラグ)の処理が問題化していた。 これらの打開策として建設されたのが、戸畑地区と八幡地区を鉄道で結ぶくろがね線。 くろがね線概要 ・八幡地区と戸畑地区を結ぶ、全長6kmの鉄道 ・宮田山トンネル:1180m ・レール幅:1067mm(旧国鉄/JR在来線と同じ) ・設計者:河内貯水池建設の総指揮である沼田尚徳 ・工期:1927年(昭和2年)起工し、1930年(昭和5年)に完成した。 その工事は全て製鉄所の社員で行っており、中間地点に当たる宮田山トンネルは 出水等に見舞われて難工事だった。 また、宮田山トンネルの洞門は沼田尚徳によって、凝った意匠が施されている。 戸畑側 八幡側 ・戸畑側入口はローマの古い城壁をかたどったデザイン。 ・八幡側入口はギリシャ・ローマの古典を倣ったルネッサンス風 使用目的 開業当初は戸畑で出来た銑鉄を八幡に輸送し精錬した、一方で八幡で出来た鉱滓を戸畑に 輸送し戸畑地区拡張のための埋立に使われた。 現在では、半製品のスラブ、ホットコイルやレール等の輸送に使われています。 くろがね線の様子 一枝地区から宮田山トンネルへ 宮田山トンネル戸畑側入口 宮田山トンネル八幡側入口 トンネルを抜けて八幡へ 枝光の県道を渡る架構 枝光の県道を渡る架構 今は珍しい、リベット継手 琵琶湖疏水の山トンネル東口にも似ている八幡側洞門 くろがね線 八幡側洞門 琵琶湖疏水 山トンネル東口 このことは、設計者沼田尚徳が琵琶湖疏水の設計者の田辺朔郎の著書の愛読者で、 学生時代に良く目にした琵琶湖疏水を参考にしたのではないだろうか。 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ
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鉄鋼の産業発展物語 第7話 / 高見神社物語
2021/03/31
鉄鋼の産業発展物語明治神宮の兄貴分となる高見神社 高見神社の由来は3世紀の時代に遡る。神功皇后が仲哀天皇を崩御の後、熊襲・朝鮮平定に あたり、皇后みずから御祖神十二柱を祀ったのが創始といわれ、近郷高見神社の本宮でもある。 創始時代は洞海湾岸の大字尾倉字高見(現在の八幡泊地近く)の小高い丘陵、 高見山と呼ばれる場所にあった。 高見神社の移設 1897年(明治30年)に八幡村に官営製鐵所を建設することが決まった。 高見山に長官・技監を筆頭とする高等官の官舎や貯水池を設置することになったため、 高見神社は移設を余儀なくされ、製鉄所建設時に豊山八幡宮(千草ホテルの近く)に 仮住まいすることになった。 操業開始から5年後の1906年(明治39年)に第一次拡張計画が議会で承認されると、高見山に 建設された高等官の官舎も、構外に移ることになった。 現在地の大蔵槻田地区に高等官・判任官用の官舎と職工用の宿舎である職工長屋が建設された。 1911年(明治44年)ごろに、高等官用官舎26棟26戸、判任官用の官舎29棟58戸、 工長屋230棟1100戸と今でいうニュータウンが開発された。 当時の地図 山手側に建ち並んだ高等官・判任官用の官舎の一体を高見と呼び、構内からの地名を引き継いだ。 職工長屋の一帯は一条町~六条町と名付けられた。 高見神社の建設 官営八幡製鐵所が操業した当初から高見神社は製鐵所の守護神とされ、それに相応しい地に造営 したいという思いが製鐵所関係者の間に強くあった。 民間会社の日本製鐵となった1934年(昭和9年)時に新しい神社を造営することを決定し、 設計を内務省神社局の角南隆技師に依頼した。 角南技師は、春日造、住吉造、大島造、大社造といった古い時代感覚の模倣を一歩も出ない建築家に 不満を持っており、昭和に時代を象徴するような神社建築を後世に残したいという思いで、 新様式の神社設計に取かかった。 そして近代遺産の観点からも評価できる高見神社が1936年(昭和11年)に完成し、 37年の仮住まいを経て現在の地に永住の地を定めるとともに、 地域の神様の枠を超え、製鐵所の守護神へと大きく性格を変えていった。 明治神宮と高見神社は兄弟 角南隆技師は、1920年(大正9年)に完成した明治神宮の設計を伊藤忠太教授の助手として参画した。 その後高見神社の設計を行い1936年(昭和11年)に完成させた。当時は明治神宮が高見神社の 兄貴分であった。 明治神宮 高見神社 明治神宮は、1945年(昭和20年)に戦災で焼失したため、再び角南隆技師設計し、角南流の新しい 社殿を1958年(昭和33年)に完成させた。 そして、今度は高見神社が明治神宮の兄貴分となった。 高見神社と明治神宮の双方を参拝する機会があるときは、是非とも兄弟の類似性という観点からも ご覧ください。 全国でも珍しい御祖神十九柱 神功皇后が創始された時は御祖神十二柱を祀られた。 その後、七柱が加えられ合計「十九柱」の御祖神が祀られおり、これほど多くの御祖神が 祀られているのは全国的にも珍しい神社である。 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ
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日本の産業近代化に貢献した北九州の歩み
2021/06/06
北九州歴史秘話北九州がつくった日本の産業近代化の礎 北九州を舞台とした 日本の産業発展の道のり! 北九州の歴史を辿れば、日本の産業発展の道のりが見えてくる。 この資料は、産業近代化視点から、ジャパン九州ツーリスト株式会社が独自で歴史を 調査・研究して、「日本の急速な産業発展」として編集したものです。 産業近代化の歩み 製鉄・鉄鋼産業に焦点を当て、どのようにして世界一の工業立国となったか 堀川の建設から、筑豊炭鉱との関わりも含め、現在の環境未来都市・北九州までの歴史を 紹介します。 ●堀川の建設 1621年(慶長5年)~1801年(寛政13年) 遠賀川周辺の洪水対策として人口の河川・堀川が1621年から180年の 歳月をかけて1801年に完成。 明治に入って石炭輸送用として利用。 ●筑豊炭鉱 1700年代(江戸中期)~1976年(昭和51年) 室町時代に香月で発見、江戸中期から塩田用燃料として炭鉱開発が 始まり、1872年(明治5年)鉱山解放令から筑豊御三家(麻生太吉、 貝島大助、安川敬一郎)を中心に急速に鉱山開発が進み、戦前は日本 最大の産炭地。1976年(昭和51年)貝島炭鉱閉山を最後に筑豊炭鉱の 幕を閉じる。 ●門司港 特別輸出港に指定 1889年(明治22年)産業近代化の起点 石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目の特別輸出港に指定され 築港工事が開始された。 金融機関や商社・海運会社の支店が相次いで進出し、外国航路の港 としての歴史が始まる。 ●九州鉄道開通 1891年:九州鉄道の起点門司駅が開設(現在の門司港駅の東側) 1897年:筑豊鉄道を吸収合併し、筑豊炭坑からの石炭輸送を可能とし、 門司港が石炭の積出港として繁栄。 1914年:2代目の駅舎が完成し門司港駅と改称、駅舎として初の 重要文化財に指定 ●石炭積出港・若松 1890年(明治23年)~1898年(明治31年) 1890年:若松港築港開始 普通の漁村にすぎなかったところを、石炭の積出港として築港、 最盛期には日本一の貨物取扱量を誇った。 1891年:筑豊興業鉄道が石炭専用の運搬鉄道 直方〜若松間が開業 ●製鐵所建設計画 1891年(明治24年)に開始 中国で製鉄所建設され、日本の製鉄所建設に拍車がかかる。 当初は野呂景義による年間6万トンの製鉄所を計画。 日清戦争後、1896年に和田維四郎により、大幅に製鉄所建設計画を 変更し、年間9万トンとした。 ●建設場所が八幡に決定 1897年(明治30年) 全国で17ヶ所選ばれ、門司の大里が第一候補地となる。 大里は、筑豊炭鉱に近く、広大な湿地帯、海陸の交通、労働力の面で有利 八幡は水深が浅いことが難点、それ以外は石炭入手の面等でベスト、 安川敬一郎が政治化を動かす。当時は自然豊かな寒村、芳賀種義八幡村長が、『八幡村に製鉄所を、日本の鉄づくりは八幡から』熱心に村民を説得 し広大な土地を売り出し、 1897年八幡村に決定 ●製鉄所建設 1897(明治30年)~1901年(明治34年) 長閑な寒村だった八幡村の地に、わずか3年間で製鐵所を完成させる。 旧本事務所、旧鍛冶工場、修繕工場(以上世界遺産)、東田第一高炉、 軌条ロール工場、大型ロール工場、中型ロール工場、小型ロール工場、 薄板ロール工場、高見貯水池、炉材工場他 ●東田第一高炉火入れ 1901年(明治34年) ドイツのGHH社の技術で設計・建設そして操業を開始するも、 故障の連続で惨憺たるすべり出し。 所定の出銑量がいつまでたっても出ないありさま。 その危機を救い、日本の産業発展の礎を築いたのが野呂景義。 ●鈴木商店 門司に進出 1904年(明治37年)~ 国際貿易港として繁栄していくなか、製鉄所建設の候補地ともなった 門司・大里地区に神戸の貿易商鈴木商店が進出してきた。 1904年:大里製糖所(現在の関門製糖) 1912年:帝国麦酒(現在のサッポロ) 1914年:大里酒精造所(現在のニッカウヰスキー) ●八幡製鐵所/第一次拡張期 1906年(明治39年)~1910年(明治43年) 日露戦争が膨大な軍事物資供給が必要となり、鋼材生産量年間18万トン に拡張。 東田第三高炉、分塊工場、小形工場、線材工場、鉱滓煉瓦工場他、 八幡泊地 ●八幡製鐵所/八幡泊地 1906年(明治39年)~1925年(大正14年) 原料の荷卸し、成品の積出の為に岸壁が建設された。 1906年:西田岸壁東部 1920年:中央岸壁 1922年:堂山製品岸壁及び松ヶ島岸壁 1925年:西田岸壁西部 ●安田工業 八幡で洋釘造りを開始 1908年(明治41年) 897年(明治30年)、安田財閥の創始者・安田善次郎が、東洋で初の 釘製造を決意し、東京深川で、東洋初の洋釘の製造販売を開始。 1908年(明治41年)に八幡工場を建設し、八幡製鐵所で製造した、 国産線材を使った洋釘づくりが始まる。 ●明治専門学校の開校 1909年(明治42年) 日本の産業発展に、理想的な工業技術者の育成を目的として、 安川敬一郎と松本健次郎親子が設立した。 初代総裁に山川健次郎を迎え、「技術に堪能なる士君子」の養成を 掲げ、その後の産業発展に大きく貢献、1949年(昭和24年)現在の 九州工業大学となる。 ●八幡製鉄所/遠賀川水源地ポンプ室(世界遺産) 1910年(明治43年) 製鉄所拡張計画に伴い、大量の水が必要となり、遠賀川から製鉄所まで 水を送るため、遠賀川水源地ポンプ室が造られました。 現在も現役として稼働中。 ●八幡製鐵所/第二次拡張期 1911年(明治44年)~1915年(大正4年) 日露戦争後、鉄道、造船更には工場・道路・港湾等の整備のための 鋼材需要が大きく伸び、鋼材の年産30万トンに能力アップ。 東田第4高炉を中心として、製鋼・圧延部門を増強。 ●多くの企業が北九州で誕生 1910年(明治43年)~ 1910年:森田範次商店(現在のシャボン玉石けん) 1911年:田村汽船(現在の日本水産)、出光商会(現在の出光興産) 1915年:安川電機製作所(現在の安川電機) 1917年:東洋陶器(現在のTOTO)、 1918年:黒崎窯業(現在の黒崎播磨)、山九運輸(現在の山九) ●八幡製鐵所/第三次拡張期 1918年(大正7年)〜1929年(昭和4年) 第一次世界大戦下の輸入断絶、民間需要拡大に対応するために、 年産75万トンに能力アップ。 東田第5、6高炉、コークス炉新設、銑鉄鋳銑機、第三製鋼工場、 珪素鋼板工場、河内貯水池、養福寺貯水池他 ●他の製鉄会社の創業 1917年(大正6年)、1918年(大正7年) 日本の鉄鋼需要増大に伴い下記の製鉄所が北九州で生まれた。 ・1917年:九州製鋼所(八幡)、後の新日鐵、現在の日本製鉄 ・1917年:東洋製鉄(戸畑)、後の新日鐵、現在の日本製鉄 ・1918年:小倉製鋼所(小倉)、後の住友金属小倉製鉄所 現在の日本製鉄 ●八幡製鐵所/本事務所移動 1922年(大正11年) ・初代本事務所:1899年に建設された赤煉瓦2階建て、製鉄機械同様に ドイツの建築様式を取り入れた。当時としては、最もバタ臭い (西洋風)なものであった。 ・2代目本事務所:官界、経済界に誇るべき地位を示すために、所要資材 全てを八幡製鐵所のものを使ったルネッサンス様式の3階建ての モダンな事務所。1922年から使用された。 ●八幡製鐵所/河内貯水池 1919年(大正8年)~1927年(昭和2年) 土木技師・沼田尚徳の指揮のもと、8年の歳月をかけて完成させた、 自然と調和した、第一級の近代化産業遺産。 完成当時は東洋一のダム。 ●八幡製鐵所/くろがね線 1927年(昭和2年)~1930年(昭和5年) 3年の歳月をかけてつくった、八幡と戸畑地区を結ぶ製鉄所専用の鉄道。 その工事は製鉄所の社員で行い、中間地点に当たる総延長1180mの 宮田山トンネルは出水等に見舞われて難工事だった。 ●初回の八幡空襲 1944年 (昭和19年) B29による日本本土の最初の空襲が八幡製鐵所を標的としたもので、 6月16日、そして8月20日に人命と設備に甚大な被害をこうむった。 東田・洞岡コークス炉、鋼板工場、西田発電そして動力・ガス・水道 電話などが寸断。 また同時に北九州5市全土に多大な被害があった。 ●終戦前の八幡大空襲 1945(昭和20年)年8月8日 一瞬にして目の前が煙で覆われた。2500人もの尊い命が一瞬で奪われ、 町や工場も壊滅状態。 石炭の入手が困難となったが、操業を維持すべく社員が炭鉱で労働 しながら危機を乗り越えた。 ●長崎に原爆投下 1945年 (昭和20年)8月9日 小倉が第一目標地であったが、前日の八幡大空襲の煙及び製鉄所からの 煙幕により、小倉が視界不良で造兵廠の場所が特定できなかった。 そのため急遽、第二目標地の長崎に変更し、11時2分、長崎に投下、 街は壊滅的な被害を受け、多くの尊い人命が奪われた。 そして、8月15日に終戦を迎える。 ●環境問題 1950~60年代 当時公害を防止する環境対策技術がなく、国内最悪の大気汚染と死の海と化した洞海湾。 市民運動を発端に、世界でも類の無い方法で、官・学・企業をあげた取組で公害対策を行った。 1987年(昭和62年)に、環境庁の「星空の街コンテスト」で大気環境が良好な「星空の街」に 選定され公害克服が証明された。 1950年代の東田 1960年代の洞海湾 洞海湾浚渫 ●若戸大橋開通 1962年 (昭和37年) 洞海湾に架設された、若松と戸畑を繋ぐ我が国最初の吊り橋。 完成当時は東洋一の吊り橋、溶接の信頼性の問題から、 リベット継手を使用した構造。 八幡製鐵所で製造した鋼材 24,000トン使用。 ●北九州市発足 1963年 (昭和38年) 各地で産業が発達し、5市が誕生。 1899年:門司市、 1900年:小倉市、1914年:若松市、1917年:八幡市、1924年:戸畑市 それから、5市で一大都市圏を形成しながら共通のインフラも持ちながらも、異なった行政地域であったため、各市間を一体化して都市機能を有効に 発揮し、一体感のあるまちづりをすべく、1963年に北九州市が誕生。 ●1970年代の様子 2代目本事務所 皿倉山から望む八幡製鉄所 ●八幡製鐵所/東田第一高炉(第10次) 1972年(昭和47年)吹止め 1962年に第10次の改修工事を行い、24時間365日休みなく10年間操業を 続け、高炉の神様田中熊吉が生涯を全うするのと同じ年の1972年に吹止 され、日本近代製鉄の聖地・東田の高炉の幕を閉じた。 現在高炉設備一式が、そのまま完全な状態で保全されている、 世界で唯一の遺産。 ●関門橋開通 1973年 (昭和48年) 関門海峡の下関市壇之浦と北九州市門司区を結ぶ、開通時点では 日本最大規模の橋。 3径間の吊り橋で、補剛桁はトラス。橋梁等の防食法には溶射が採用。 八幡製鐵所で製造した鋼材 30,000トン使用 ●八幡製鉄所/戸畑へ鉄源集約 1976年(昭和51年) 八幡の洞岡高炉群、焼結工場、コークス工場及び東田の製鋼工場の全ての 工場を休止。八幡地区は、圧延工場だけを残す。 …
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鉄鋼の産業発展物語 第8話 / 満州事変と洞岡地区の拡張
2021/03/30
鉄鋼の産業発展物語海に築く製鉄所の先駆け 第一次世界大戦後、アメリカも1929年にウォール街の株式暴落で恐慌が起こり、 それが世界中に波及していった。日本では1930年(昭和5年)に昭和恐慌が起き、 国際的緊張に対応するために軍事力強化を図る。 そして、1931年に勃発した満州事変は日本の産業に大きな意味を持つ。 鉄鋼原料と製品市場確保のために軍事力により中国・満州に踏み込んだものであり、 膨大な軍事を通じて、重化学工業及び関連産業の発展を促進した。 一方、金本位制の停止が赤字公債の発行による財政支出の増大によって、 産業活動を刺激する道を開いた。 洞岡地区の拡張 洞岡地区(葛島と東田地区の間の海)は、高炉で発生した鉱滓の捨て場として、 1918年(大正7年)頃から埋め立てが開始された。 埋立の様子(奥は東田地区) 当初は、有事の際の原料や鉱石を2~3年分確保する用地づくりが目的であった。 しかし、八幡地区は拡張の余地がなくなったため、この場所に新しい工場が次々と建設される。 海に築く製鉄所の先駆け (1930年〜1938年) 洞岡は日本鉄鋼業の立地の特徴である「海に築く製鉄所」の先駆けとなった。 東田地区はドイツ式のレイアウトでつくったもので、陸上輸送による内地原料を主眼とし、 製品の運搬に自然への勾配を利用する目的で、製鐵所の一番高い海抜15mの土地に高炉を 建設した。しかし、原料の大部分は海外から船舶で輸入しており、汽車や索道による構内 運搬費がかさんでいた。大きなコストダウンを図る目的で海岸に高炉とコークス炉を建設した。 4基の高炉群 現在の様子 ・1930年:洞岡第一高炉火入れ、洞岡コークス炉操業開始 ・1933年:洞岡第二高炉火入れ ・1937年:洞岡第三高炉火入れ ・1938年:洞岡第四高炉火入れ、洞岡第五コークス炉作業開始 鉄鋼の産業発展物語 / 目 次 へ
