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沼田尚徳 / 製鉄発展の礎を築いた男

製鉄所の発展の礎を築いた男 沼田尚徳の偉業
 
当時建設中の官営八幡製鐵所に入社し、30年余にわたり土木技師として辣腕を振るい、
製鉄所のみならず北九州工業地帯の基盤となる土木工事を次々と成功に導いた。
中でも工業用水と水道用水供給の為に北九州郊外に建設した河内ダムは
当時東洋最大級の規模を誇り、日本を代表する近代化産業遺産のひとつとして世に知られている。
   
 
その沼田尚徳の功績を紹介します。
 


水戸藩の沼田家

1875年(明治8年)、水戸藩に代々仕えた武家の家系で生まれた。
沼田家は尊王攘夷派/天狗党結成の発起人の一人である伯父沼田順次郎、
藩幹部の筆頭書記官で祖父沼田久次郎を持ち、そして祖父とともに「大発勢」と呼ばれる
討伐隊に加わり、明治維新後は教育者の道を歩んだ沼田順三郎の長男として生まれた。
 


青年時代

1894年(明治24年)旧制第一高等中学に入学、そして新たに新設された京都帝国大学に
1897年(明治30年)に入学し土木技術や鉄筋コンクリート技術学び、更に水道施設や
琵琶湖疏水などの技術にも関心を持っていたと言われている。
 


官営八幡製鐵所に入社

1900年(明治33年)に京都帝国大学を第一回生として卒業、当時建設中だった
官営八幡製鐵所に土木技師として入社した。
    
1901
年(明治34年)に東田第一高炉に火が入り、日本で初めての銑鋼一貫製鐵所が
操業を開始する。
 
1902年(明治35年)に技師を命じられ、1911年(明治44年)に修築科長となり、
1915
年(大正4年)にはアメリカとイギリスに出張した。
  
手がけた工事は繋船壁築造工事に始まり、40万坪の洞岡埋築、くろがね線建設そして
河内貯水池や養福寺貯水池建設といずれも当時の日本で最大級の土木工事ばかりである。
 


最初の挫折

1916年(大正5年)に竣工した下大谷貯水池が、わずか1ヶ月余りの後に豪雨で脆くも決壊し、
製鉄所や付近の住宅地域に多大な被害を及ぼし住民
1名の尊い命を奪う大惨事を引き起こした。
事故の原因は堰堤の強度不足であった。事故により尊い命が犠牲になったことが大きな
心の痛手となり、その後この教訓から、建設現場を自らの足で歩き自分の目で確認する
現場第一主義の仕事スタイルを育んでゆく。
 


渾身の大事業、河内貯水池 「土木は悠久の記念碑」

製鉄所第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919年(大正8年)に竣工し、
8年の歳月をかけて1927年(昭和2年)に完成した。
当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく
英知と情熱を注いていく。
 
かつてに河内は製鐵所から南10㎞ほど谷あいの31戸が暮らす自然豊かで平穏な農村、また都市の児童の
山村留学も受入れている教育先進地域。
   
その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。                        
ダムには当時最新の土木技術をふんだんに用い、一方で現場の石材や自社鋼材を用いた独自の
設計で土木構造物への新しい挑戦をした。更に環境にも優しい工法を積極的に採用し、
将来市民の憩いの場所をすべく、橋から取水塔、管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。

このことは、先祖代々の土地と故郷の美しい自然を提供し、建設に協力を惜しまぬ村人へ何としても
恩返しでもあった。
安全管理でも最新の配慮がなされ、当時の西日本最大級の難工事にも関わらず8年の建設期間中1名の
死者も出さなかった。
80年経過した今でも給水の本来の機能を果たしながら、憩いの場として多くの人達の親閉まれている。

独特の英知を凝らして作った堰堤 ヨーロッパの古城をイメージ当時コンクリートは高価の為、
粗石を混ぜて使用、銅板を内部に入れた伸縮継手で亀裂を防止した。  

工事段階での型枠代わりに石壁をつくり、ダム完成の耐久性を確保。     
使用した切石は12万個、加工時発生した小さな石も、付帯建築物に張付けて美観に
優れたダムを
作り上げた。
  

河内貯水池にかかる橋
自然との調和をコンセプトにし、当時の技術を結晶し、創意工夫して設計で、
それぞれの場所の景観に合わせて作った橋をつくっている。
  
その代表的なものが、日本で唯一残るレンティキュラー・トラス橋(レンズ型のトラス橋)の南河内橋である。 
この形と色が実に自然と調和し、鉄の街八幡のシンボルとなっている。

悲しみを乗り越えて 
建設中、沼田尚徳は現場では明るく振る舞っていたが、数々の悲しみを心に押し潜めていた。
山の神はこの大事業と引き換えにかけがえのない家族を貢ように強いていたようでもあった。
父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが妻泰子。
しかし、最愛の妻もダムの完成を待たずして猩紅熱でこの世を去ってしまった。    
その後母も亡くなり、家族をダムが人柱として飲み込んでしまったような悲劇であった。
  
河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、
妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。
 


企業利益より社会貢献 沼田尚徳の美学

実直でロマンティストの沼田尚徳は、営利栄達にはあまり縁がなかった。これほどの大事業を成功させ、
製鉄所と八幡市の発展の礎を築いき、勲三等瑞宝章まで授与され、製鉄所では土木部長でありながら
製鉄所長官に次ぐ処遇を受けていた。
にも関わらず、1930年(昭和5年)に55歳の誕生日を待たずして静かに勇退した。
その後、八幡、戸畑、若松市の委託として三市の上水道整備を指導し多大な貢献をし、
日本最大の軍事工場であった小倉陸軍造兵廠の土木関連業務も手がけたが、
1934年(昭和9年)に全ての職を辞し田舎に陰棲した。
 


遠 想

河内貯水池の堰堤を見下ろす小高い場所にヨーロッパの古城を模したと言われる管理事務所が建っている。
その出入り口に沼田尚徳の「遠想」の言葉を刻み込んだ石の掲額が残されている。
ここから河内貯水池を静かに見下ろしながら、遠く未来の想いを馳せているに違いない。
その未来の姿はどのようなものであったのであろうか。それは百年経った今でも人々の
潤し続ける河内貯水池の姿、そして彼が残した礎の上にいつまでも成長を続ける
日本の未来だったのではなかろうか。
 


本投稿は、西日本ペットボトルリサイクルの千々木亨氏の論文 鉄都に生きる男たちから
引用させてもらいました。

皿倉山からの日本一の夜景

                                                                                                                                

                                           皿倉山から見た北九州

日本一壮大でダイナミックな北九州の夜景
まるで地上に満天の星を散りばめたような皿倉山の夜景。
高さ622mの山頂から望む夜景は最高に幸せです。

西は遠賀川、八幡西区、八幡東区、若松、小倉北区、門司、小倉南区そして山口県まで一望できる。
とても一枚の写真には納まりません。

海岸線に拡がる工場群、そして内側に入って商業地域、住宅群から発する無数の光。
まるで、天の川が地上にあるみたい。
 
日本の近代製鉄が1901年に操業を開始した八幡の東田地区
   

遠賀川、八幡西区、八幡東区、若松、小倉北区、門司、小倉南区そして山口県まで一望できます。
西から東へ、山頂から220度の大パノラマの夜景をご覧ください。

     遠賀川        堀川            折尾             黒崎  

      洞海湾                               八幡 東田                                        

       戸畑         門司      小倉北区                      小倉南区                     苅田

また眼下に拡がる昼間の景色も圧巻です。 

 

世界遺産ツアーを実施しました 10月29日

 

製鉄所のおひざ元・八幡東区の皆さんの世界遺産ツアー
実施日 2015年10月29日(木)
参加者 44名

 

 

常に日本の先頭を走り続けている北九州。
北九州でどのようにして日本の産業が発達していき、世界遺産登録に繋がったか。
製鉄所設立の経緯、戦争の苦難をどのように乗り越え、環境問題をどのように解決し、
世界一の工業立国になったのかをたっぷり紹介しました。

 

行 程
平野出発

安田工業→八幡泊地→世界遺産・旧本事務所→北九州イノベーションギャラリー

東田第一高炉→洞海湾クルージング→かねやすで昼食→軍艦防波堤→わかちく史料館

旧古河鉱業ビル

平野解散

 

 

 

 

  

 

 

 


 

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NHKで北九州の魅力が紹介されます

常に日本の先頭を走り続ける北九州

その北九州の魅力がNHKの総合テレビで紹介されます。
・番組名 サキどり
・放送日 11月1日(日) 朝8:25 〜8:55

 
左から、片山アナウンサー、ジャパン九州ツーリスト㈱ 近藤、片岡解説委員

一般に、工業の街とか九州の玄関口としてしか知られていない北九州市。
しかし、そこには他の地域にない、沢山の魅力を秘めた街です。
   

日本で初めて、銑鋼一貫の近代的な製鐵業が始まり、そして様々な産業がこの地で生まれた。
それから、日本の産業発展がこの地で行われた。
常に先頭を走っているゆえに、誰よりも先に公害を経験し、それをこの地で環境問題を解決した。
そこで生れた環境技術を基に、リサイクル事業や環境対策事業を展開している。

また、この町は単なる工業や環境の街だけではない。
自然環境に恵まれ、太古の昔から多くの人々が生活を営んでいる街、漁場や農業も盛んである。
古くから受け継いできた伝統文化もある街。

そんな北九州アナウンサーと解説委員が旅をして、その魅力がたっぷり紹介されます。
旅の始まりは皿倉山、そして私は洞海湾をクルーズ船で巡りながら案内します。

どんな旅になるか? ご期待ください。

世界遺産ツアー ~世界遺産巡り&洞海湾クルージング〜

世界遺産ツアー
 世界遺産巡り & 洞海湾クルージング
 
地上から日本のさんぎゅ発展の足取りを辿り、そして洞海湾クルージングで石炭産業との
関わりに触れましょう。

   
    旧本事務所           東田第一高炉         洞海湾クルージング


●行 程   

  9:00 JR小倉駅新幹線口出発 ===  都市高速(小倉駅北IC→大谷IC → 枝光IC) === 
  → 3つの世界遺産 旧本事務所旧鍛冶工場修繕工場 (車窓から案内) → 
  安田工業(洋釘づくりのパイオニア)車窓から案内  →  八幡泊地(堂山製品岸壁)
 →  旧本事務所・世界遺産眺望スペース → 東田第一高炉  → 昼食 → 
 洞海湾クルージング (若松→奥洞海→葛島→八幡泊地→若松) → 15:30頃 JR小倉駅解散


●基本条件 
・25名以上の団体のお客様のオーダーメイドツアー。
・日程:要望に応じて設定します(土・日・祝日でも可)

 ・最少催行人員:25名 最大45名
 ・交通手段: 貸切バス利用
 ・ツアーの案内:新日鐵OBのガイド付
 ・出発場所:北九州市内のご要望の場所 
 ・昼 食 : 大谷会館、千草ホテル、ママの餃子、アルモニーサンクからお選び下さい。


●料 金  日程と人数によって異なります
 目安 5,500円〜7,000円/人 
 料金に含まれる項目:貸切バス代、有料道路代、駐車場代、洞海湾クルージング代
               昼食代、ガイド代、旅行保険代     
 *条件に合わせてお見積りを提示します。


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世界遺産の謎に迫る/製鐵所操業開始までの紆余曲折

日清戦争前の「野呂景義」が作成した製鐵所建設構想はどうなったか。
紆余曲折の中で邁進した、初代製鐵所長官の和田維四郎」の功績
  
軍備増強と産業資材用鉄鋼生産の増大を図るため、1896年(明治29年)に第9回帝国議会で
製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
その内容は日清戦争前に野呂景義が提案した製鐵所建設構想と異なり、
和田維四郎(わだ つなしろう)による、銑鋼一貫の巨大製鉄所構想であった。
   
   和田維四郎          野呂景義
そして、本格的に製鉄所建設の取組が行われる。
和田維四郎は初代長官の山内提雲の後任で、2代目の長官となり、製鉄所創立に対して
中心的な役割を果たす。
技監は本来なら、日本で初めてコークス炉を使った製鉄法を成功させ、日清戦争前まで
製鉄所建設構想を作り上げた「野呂景義」が考えられるが、初代長官の山内が、
「大島道太郎」を任命した。
大島道太郎は、近代製鉄の父・大島高任の長男。
 
その年の1996年(明治29年)に製鉄所立地場所の検討が始まり、和田道太郎を中心に
調査が行われ、最終的に
189726日に「官営製鉄所は福岡県下筑前国遠賀郡八幡村
と決定された。 決定の経緯
 
その決定と同時に、和田が初代製鉄所長官に就任し、ドイツのGHH社設計の製鉄所建設が始まる。
そしてドイツ人技師を雇い入れて指導を仰ぐ。
1899年(明治32年)には、中国の大治鉄鉱石の輸入契約を締結し、また安川敬一郎が経営する
二瀬炭鉱を買収し、原料供給上の基礎を開いた。
 
そして、1901年(明治34年)に我が国最大となる、八幡製鐵所の東田第一高炉に火が入り
製鐵所の操業が開始させた。

和田維四郎は日本鉄鋼協会から「故製鉄功労者」9名の中の1人として表彰された。
その功績
①製鐵所構想案を拡充する「設立案」の策定
②外国人技師・職工長の雇入れ
③原料の確保
④建設工事の推進と作業開始式挙行
⑤販売などの運営方針策定
    
しかしながら、決してここまで順調に進んだものではなく、生産量や設備仕様決定が紆余曲折し、
試行錯誤で日々が苦労の連続。
そして建設工事の遅れと作業開始式を並行して進行しなければならず、建設費の増額による
財政難に陥った。
作業開始式の不手際が議員に不評を買って、和田維四郎は長官を辞職した。
 


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世界遺産の謎に迫る/八幡製鉄所立ち上げ時の苦難

八幡製鐵所立ち上げ時の苦難野呂景義の功績
 
・ドイツ式大規模生産方式で始まった、日本初の銑鋼一貫製鉄所。 
・操業開始時は惨憺たる状況。
・製鉄所建設前に失脚した、野呂景義が呼び出される。
・徹底した原因究明と抜本的な改善で再火入れ。
・今日の世界に誇るものづくり日本の原点がここで育まれた。
 
操業開始時は惨憺たる状況
1901年2月、ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始。
しかし、その滑り出しは惨憺たる状況であった。
火入れの翌日1.2トン出銑したが、原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、
羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
その後対策を行って、操業を進めるもきわめて不良、予定出銑量160トン/日に対して
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、
銑鉄の品質は概して粗悪であった。
そしてついに1902年5月に休止した。 

急遽、野呂景義が呼び出される
野呂は、我が国初のコークスによる高炉操業に成功し、日清戦争前の全て日本の原料を使う
製鉄所建設構想を立案したが、採用されず、それ以降製鉄所には関与していなかった。
 
原因の徹底究明
野呂の門下生である製銑部長服部斬が記した操業記録と現場を徹底的に調査した。
その結果、高炉の構造、高炉装入物の配合、炉内における装入物の溶結、数度に及んだ
送風停止が原因であると指摘。
結局、操業不調の主な要因は、炉床の冷え込みと使用するコークスの品質に起因することは
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。 
 
抜本的な設備改善と新しい技術の導入
炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。
コークス製造において、「二瀬炭に無煙炭もしくは三池炭を配合して、堅質で大塊のものを製造」
という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって
積極的な改善が進められた。
   
       高炉設備                   炉内の羽口                 高炉の鉄皮           
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と操業指導が
必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
このように、我が国の自然的諸条件を軽視又は無視した技術の在り方が批判され、生産技術の
実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。
 
再火入れ
1904年7月23日に再度火入れされ、以後操業は快調で1910年6月2日まで連続稼働し、
2140日に亘って出銑を続けた。
 

八幡製鐵所創業の意義
人々の汗と努力が実を結び、鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける
原動力となっている。
生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である。
 


野呂景義の功績  前職が新日鐵の高炉設備エンジニアとして解説します。

今回は専門的な説明が多くて分かりにくいと思いますが、ここで述べられた
原因や改善策は、今日の設備設計や操業技術の重要な基礎となっています。
また、ここで実施したことは、前例もなく、誰も教えてくれなかったことです。
野呂景義がロンドンやドイツに留学して学び、帰国後に製鉄所や鉱山で技術指導しながら、
現場で自ら培った技術によるものであると思います。
高炉に関する、教科書や技術論文などない時代に、ドイツの最新技術を導入して火入れした
不調の高炉に、このような抜本的な改善を施した。
そしてその後の順調に操業を進め、今日の八幡製鉄所の基礎を築いたことは、
恐るべき功績であると思います。
その陰には、絶え間ない日々の努力があったものと考えます。


野呂景義の想い
鉄は工業の母、護国の基礎なり。
製鉄の業起こらざれば万業振るわず。


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世界遺産の謎に迫る / 官営製鐵所がなぜ八幡に立地

全国17ヶ所が候補地
第一候補地
は門司の大里だった!
八幡立地の最終決定は、安川敬一郎の政治工作が功を奏す。
 
軍備増強と産業資材用鉄鋼生産の増大を図るため、1896年(明治29年)に第9回帝国議会で
製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
総予算額650万円、その中に清国から受け取った賠償金のうち58万円が含まれる。
 
1996年に政府によって候補地が選ばれた。
青森、釜石、塩釜、千葉、品川、鶴見、静岡、和歌山、尾道、呉、大竹、梅田
大里(門司区)、板櫃(小倉北区)、八幡(八幡東区)、大牟田、長崎
各候補地とも郷土に近代的な製鉄所をと意気込み誘致活動を展開し、
お互いに一歩もゆずらなかった。
 
大島道太郎が候補地決定の責任者となり、調査団を率いて候補地を調査した。
その立地の条件は、①広大な建設用地が安価で得られること
②海上・陸上の交通の便がよいところ③原料と燃料が得やすいところ。
 
調査の結果、北九州の3ヶ所を含む、4ヶ所に絞られる。
①呉(広島県) ②大里(門司区) ③板櫃(小倉北区) ④八幡(八幡東区)
    
                   呉                          大 里                   八 幡
 
原料と燃料入手の点で呉は落ちて、北九州の三村が残る。
 
その中で、大島は、石炭に入手には洞海湾(八幡)だが、若松港の水深が浅く到底大型船を
出入りさせることができないと、一旦は「大里第一」とした。
大里は、筑豊炭田を背後に持ち、アシが生い茂る湿地帯が多い土地、海陸の交通条件に優れ、
八幡が足元に及ばない人口を抱えていた。
更に、江戸時代に村の一角から鉄鉱石と銅鉱石が採掘されていたことも影響している。
 
これに対して、若松築港会社会長の安川敬一郎は、「水深を深くすれば大里に勝る」と確信し、
起死回生の政治工作を行う。
 
旧黒田藩主・金子堅太郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一の同意を得、渋沢栄一と後の
長官和田維四郎を通じて、大島と長官山内堤雲の説得を依頼した。
こうした安川敬一郎の運動が功を奏し、用地買収担当の製鉄所事務次官に
八幡出張の辞令が出された。

  
    安川敬一郎                芳賀種義
そして八幡村の芳賀種義村長が「八幡村に製鉄所を、日本の鉄づくりは八幡から」と熱心に
村民を説得し、100万m2もの広大な土地を地価の半値で売り払うことに協力した。
 
こうした後、1897年2月6日に「官営製鉄所は福岡県 下筑前国 遠賀郡 八幡村に置く」
公布された。
    
そして、1901年に東田第一高炉が火入し、日本の近代製鉄の幕が開いた。
 
安川敬一郎は筑豊炭田の有力炭鉱であっただけでなく、その政治的・経済的人脈を通して、

八幡に製鉄所を立地に決定的な役割を果たした。

 

 

 


 

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世界遺産の謎に迫る/日清戦争以前の製鉄所建設構想

日清戦争前に作られた製鉄所建設構想は実現しなかった。

製鉄所建設のきっかけを作った
清国(中国)の漢陽製鉄所。
清国が軌条(レール)の売込に来た。
九州の石炭に目をつけてきた
 
製鉄所建設構想は、日清戦争(1894年)以前の1891年から始まった。
最初から軍部と鉄道の要求に応える製鉄所建設は困難と考えていた。
 
しかし、既に清国漢陽製鉄所が、自国の鉄鉱石を使い、ベルギー人の指導の基で稼働を始めていた。
そして日本へ軌条の売込に来て、九州の石炭にも注目していた。
このことが、日本の製鉄所建設に拍車をかけた。
 
それから、議会で様々な議論がなされ、
その中に技術者として「野呂景義」も参加した。
そして、日清戦争前の野呂景義の案を採用して決まった構想は、小規模なものだった。
中国の鉄鉱石利用は考えず、国内資源を前提とする。
銑鋼一貫製鉄所でなく、軌条用に高炉を使い、軍事用には鍛造設備を使う製鉄所。
そして、予算規模を考慮し、高炉の能力は年間4万2千トンと著しく低いものだった。
 
日清戦争前に決まった構想は野呂景義の失脚によって実現されなかった。 

*失脚した、野呂景義はその後、官営八幡製鐵所立ち上げに大きく貢献する。

 

 


 

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世界遺産の謎に迫る/製鐵所操業開始までの紆余曲折

日清戦争前の「野呂景義」が作成した製鐵所建設構想はどうなったか。
紆余曲折の中で邁進した、初代製鐵所長官の和田維四郎」の功績
  
軍備増強と産業資材用鉄鋼生産の増大を図るため、1896年(明治29年)に第9回帝国議会で
製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
その内容は日清戦争前に野呂景義が提案した製鐵所建設構想と異なり、
和田維四郎(わだ つなしろう)による、銑鋼一貫の巨大製鉄所構想であった。
   
   和田維四郎          野呂景義
そして、本格的に製鉄所建設の取組が行われる。
和田維四郎は初代長官の山内提雲の後任で、2代目の長官となり、製鉄所創立に対して
中心的な役割を果たす。
技監は本来なら、日本で初めてコークス炉を使った製鉄法を成功させ、日清戦争前まで
製鉄所建設構想を作り上げた「野呂景義」が考えられるが、初代長官の山内が、
「大島道太郎」を任命した。
大島道太郎は、近代製鉄の父・大島高任の長男。
 
その年の1996年(明治29年)に製鉄所立地場所の検討が始まり、和田道太郎を中心に
調査が行われ、最終的に
189726日に「官営製鉄所は福岡県下筑前国遠賀郡八幡村
と決定された。 決定の経緯
 
その決定と同時に、和田が初代製鉄所長官に就任し、ドイツのGHH社設計の製鉄所建設が始まる。
そしてドイツ人技師を雇い入れて指導を仰ぐ。
1899年(明治32年)には、中国の大治鉄鉱石の輸入契約を締結し、また安川敬一郎が経営する
二瀬炭鉱を買収し、原料供給上の基礎を開いた。
 
そして、1901年(明治34年)に我が国最大となる、八幡製鐵所の東田第一高炉に火が入り
製鐵所の操業が開始させた。

和田維四郎は日本鉄鋼協会から「故製鉄功労者」9名の中の1人として表彰された。
その功績
①製鐵所構想案を拡充する「設立案」の策定
②外国人技師・職工長の雇入れ
③原料の確保
④建設工事の推進と作業開始式挙行
⑤販売などの運営方針策定
    
しかしながら、決してここまで順調に進んだものではなく、生産量や設備仕様決定が紆余曲折し、
試行錯誤で日々が苦労の連続。
そして建設工事の遅れと作業開始式を並行して進行しなければならず、建設費の増額による
財政難に陥った。
作業開始式の不手際が議員に不評を買って、和田維四郎は長官を辞職した。
 

 

 


 

【遺産の裏側に隠された物語】
 
 
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